そして最後に、アップしそびれてたW(旧)さんからの頂き物です(笑)
むじんとう
むじんとうつづき
そこは太陽が近かった。
じりじりとうだるような暑さに、きらきらと光る真っ白の砂浜、穏やかに打ち寄せる波。
遠くから海鳥の声、鼻先をくすぐるささやかな海風。
弓神は脱力を誘う光景にも負けず、片膝を立てて座ったまま身じろぎもせずに座っていた。
極彩色の蝶が隣の島からひらひらと飛んできて、風に乗ってまたどこかへ消えていく。
傘のような大きな葉を持つ木の下に座っていると、ちらちら揺れる木陰と波の音は段々と眠りの世界へと弓神を誘っていたが、神経が尖りきった弓神には何の効果もなかった。
バサバサと弓神の後ろのシダの茂みが掻き分けられて、間からひょっこり顔を出したのは咲神である。
弓神は隣までやってきた咲神に一瞬だけ目線を向け、無関心の体でまた目の前の海を見つめている風を装った。
「やっと起きたね。何でそんなに難しい顔してるの? 面白おかしく歌って踊って抱腹絶倒の日々を過ごそうよユミユミ〜」
咲神は能天気な顔で、普段の弓神にすら無理なことをさらりと言う。
弓神は生ぬるい空気が冷えそうな視線を一瞬だけ咲神に向けた。そのまま堅く口を閉ざしたままの弓神に、咲神はあれー?と首を傾げる。
間髪入れずに返ってくる「一人でやれ」などの論反論がなくて、当てが外れたらしい。
そもそも機嫌が良くても悪くても、突っ込み待ちそのものが迷惑である。こちらを巻き込まずに、兄弟だけで完結しろと弓神は思うが、口に出してはやらなかった。
無反応の弓神に懲りずに、懐から毒々しい色の何かを取り出す。
何としても弓神から反応を引きだそうとしているのが、逆効果以外の何者でもない。こういうところが本当に腹立たしい。
「そんなユミユミに、ほら、ワライタケちょっと強力版」
禍々しい色合いの何かを取り出しかけると、無言で弓神の手が脇に置かれた杵に伸びたのを察し、咲神がサッと懐に危険物を戻した。
弓神はそれが顔を見なくてもわかって、少しだけ溜飲を下げる。これを振り抜いたときの威力が冗談では済まないのは、咲神は我が身を持ってよく知っているはずだ。
花神兄弟の自爆と紙一重の挑発が日々悪化の一途を辿るのが、自分のつきあいが良すぎるのが原因の一端であるなど、弓神は薄々でも察してやりはしないのである。
「ねー、二人しかいないんだしさ。僕と喋らなかったら誰と喋るの、ユミユミは」
何故当然のようにべらべら喋ることが前提なのか、聞くことすら弓神には億劫だった。僕とお前でする話なんて今更ないだろ、と胸の中だけで呟く。
ただ、このままでは鬱陶しさが増すばかりなのも確かだった。
「…………丸一日」
弓神が重い口を開けた途端、咲神はぴたりと口を閉じる。
「呼んでも叩いてもガーガー眠りこけて起きやしなかった誰かさんが言えることじゃないよね?」
「いやー、ユミユミったら結構本気で叩いてくれたよね。僕もう体があちこち痛……何でもないです」
口は開いたものの、ぎすぎすした空気はそのまま、吐き捨てるような口調の弓神にもめげなかった咲神だが、ぎしり、と杵の柄が立てた不穏な音で何を察したのか賢明にもその軽い口は閉じた。
不自然に優しい口調で、弓神は微笑んでやった。
「餅にしてやってもいいんだけど? 遠慮しなくてもいいよ」
咲神もわざとらしいほどにっこりと笑顔を浮かべて、二人はしばらく顔を合わせたが、やがて弓神が流暢に舌打ちする。
「はい」
ごそごそと袖を漁って、咲神が次に取り出したのはいい匂いの実だった。
「昨日から何も食べてないんだもん。お腹も空いてるよね。食べて。大丈夫だから」
大丈夫じゃないものを出すときの咲神はそれなりにちゃんと自己申告するので、渡された果実に問題はないのだろう。喉が渇いていた弓神は素直に結構な大きさのそれを受け取った。
かぶりつくと咲神がほっとしたように笑う。皮は薄く、ぼんやりと甘い汁が滴るその実は柔らかい。この光景そのもののような太平楽な味だ。反対側の袖からもう一つ取り出し、咲神もかぶりつく。
水分も甘みも十分な実は、気が張っていて気がつかなかった弓神の空腹を十分に満たしてくれた。
腹がくちくなってすることもなくなると、どうしても咲神に意識を戻さざるを得ない。そうすると自然と機嫌が悪くなる。
そこへのほほんとしたこの言葉が投げられる。
「舟はどうしたの? 見当たらなかったんだけど……」
「沈んだ」
刺々しい空気は感じている上で、無視を決め込んでいるに違いない咲神に弓神の苛々はやはり募る。いつも以上に冷たく当たってしまうのは仕方ない。
「えーっ! いつの間に!」
ぶっちんと何か千切れた気がした。割とよく千切れてそろそろ粉々になっていそうな何かが。
ガッと立ち上がって、上から指を咲神に突きつける。
「あのねえ、わかってんの? 力尽きた咲をここまで引っ張ってくるのに僕がどれだけ苦労したと思ってんのさ……ッ!」
「え、ユミユミ隣ですやすや寝てるし砂浜で何か平和な感じだしえー、と…………迷惑かけちゃってごめん……」
弓神が寝ていて平和な感じなら弓神が苦労していない理由にはならないだろう。というよりも、咲神があまり事態を重く見ていないらしいのが見て取れて、弓神の気分は更に急降下した。握りしめた拳に筋が浮く。やばい、と咲神の口が動いた。
「軽く謝って済むと本気で思ってるよね? どこだかわかんないとこで起きたら舟がぶくぶく沈んでくとこだし、咲が寝ぼけてしがみついて離れないから僕まで溺れそうになるし、浜に上がれば息してないし!」
「それは……よく無事だったね……」
咲神はしばらく黙ってようやくそれだけ口にした。
*****
どうにも思った以上の修羅場だったようである。
状況を想像する。
海に投げ出されて死にもの狂いで陸に上がって、見れば息をしていない咲神。口には出さないけれど、きっとものすごく心配してくれたのだろう。そして無事を確認して我に返ったら咲神は心配をかけるだけかけて、太平楽に寝こけて起こしても起きない。そして時間だけは刻々と過ぎる。まだ咲神は起きない。何かあって起きないんじゃないかと更なる心配できっとそわそわしておろおろして、でも疲れでつい寝入ってしまって、起きたら隣に誰もいない、と。
弓神が怒り狂うには十分な理由があると咲神は判断した。ついでに自分の態度を振り返り、少し、いやかなり反省した。
「浜に転がしてたら、咲は自分で水吐いてたよ」
「あ、そう……」
すっかりつむじを曲げた弓神を前に、咲神は態度を改める。
「申し訳ない。心の底からユミユミには謝るよ」
「急に真面目な顔して、言い方ちょっと変えればいいってもんじゃないだろ! おちょくってるのか!」
弓神の指先は怒りで震えていた。こうなっては何を言っても火に油。
面倒なわけではなくて、単純にどうしていいかわからないから内心お手上げになる。たぶん口を開いても黙っていても怒られる。ひたすら困ったが、咲神は顔にも口調にも出さなかった。これ以上怒らせたら弓神は梃子でも動かなくなるということはわかっている。
ここはひたすら下手に出るしかない。
遭難中で、仲違いは避けたいという打算もあるけれど、正真正銘の済まない気持ちだってものすごくあるのだ。
弓神には今ひとつ上手く伝わらない。多分、自業自得なんだろうけれども。
「僕が悪かったよ。だって本気でごめんと思ってるんだけど、口で伝えるのって難しいんだって! 帰れたら頑張って美味しいものいっぱい作るから」
「僕が食べ物で釣れるとでも」
弓神が忌々しげに吐き捨てる。
「それ持って一緒に慈母のとこ行こうよ」
「慈母の名前を出せば済むと……」
咲神はめげずに畳みかけた。反応が返ってくるだけマシだ。完全無視の場合、三日は顔も見てくれない。
「思ってない、ちゃんと反省してる! でもユミユミがちょっとでも気分よくなればいいと思って…るん……、だよ? 怒ってもいいよ。ううん、むしろいっぱい怒ってよ。でも皆できれいな景色見に行こう?」
弓神はぎゅっと拳を握りしめた。その白く節が浮いた拳で殴られても避けずに甘んじて受けよう。ユミユミは力が強いから痛いけど我慢しよう、と咲神は悲壮な決意をした。
しばらく二人して黙り込んでいたら、弓神が根負けしたようにため息をついた。
「…………景色はもういい。昨日から散々見たから、飽きた。何とか帰る方が先だろ」
咲神もほっと息をつく。帰れたら散々罪滅ぼしという名のご機嫌取りに勤しまないといけないことは確定したが、ひとまずの棚上げは成功だ。
「そうだね。何とか方法を見つけて、帰らなきゃ」
「まぁね。……で、どこなんだよ、ここは!」
いくら見直してみても、そこは知らない南国風景だった。
*****
目下、弓神と咲神はどこかも知れない南の島で遭難中である。
とはいえ、不安という不安が端から溶けていくような長閑な風景で、焦りはなかなか沸いてこない。弓神にしても怒り疲れたのか、とりあえず大人しくしてくれたので一緒に島を見て回ることにした。
来るか来ないか分からないけれど、万が一助けが来たときの目印のために、流木を集めて、狼煙だけ上げておく。火打石は弓神が持っていた。
咲神が軽く歩き回った場所は穏やかな砂浜だが、島の真ん中は小さくも鬱蒼とした密林になっている。謎めいた唸りや大きな葉擦れの音が明らかにとても怪しいので、後に回したんだ、と咲神は説明した。
「のんびりするし綺麗なとこだよねー。ユミユミは僕たちがどこにいるのか、少しでも見当つかない?」
弓神は片手で杵を肩に担いで、高下駄で危なげなく砂を踏んで進む。
「分かってりゃ大人しく遭難なんかしてないよ。気付いたときは舟が沈みかけて、それどころじゃなかったし、ここから見える島影にぜんっぜん見覚えはない。それを調べに行ったんじゃないの?」
「うん、そうなんだけどね……。南の島みたいだから、僕の眷属がいないかと思ったんだけど、あの林以外じゃ、目につくところには眷属どころか、生き物は何もいなかった。島のまわりをぐるっと歩いてみたけど、ちっちゃい島みたいでさ。一周したら元の場所に戻ってきちゃったんだよね。それぐらいしかわからない」
白く長く続く砂浜は、貝殻が細かくなったような砂で出来ていた。踏みしめるとさくりさくりと音がする。無事帰れたら皆で一緒に来たいなあ、と咲神が呟いた。僕はもう嫌だ、と一言で切って捨て、弓神は砂浜の向こうに見える島々を目を凝らして見る。遠浅の海はどこまでも広がっているように見えるが、さすがに小さく見える隣の島までの歩いていけるということはないだろう。
「島を出るにも船が要りそうだね。要するに、僕を置き去りにした割に何もわかんなかったってことだよね」
突然トゲトゲに戻った弓神に咲神が慌てる。
「半刻も外してないでしょ! 一応声はかけたんだよ。……でも、ユミユミ寝てたし、疲れてたみたいだったし、起こすにしのびなく……」
「余計に危ないと思わなかったのかよ……」
「僕が寝てるあいだはユミユミが見張りしていてくれたんだろうし、ユミユミ寝てるときは僕も見張りしたほうがいいのかと思って、しばらく見てたんだけど、何も来ないし、何もないからこそ安心して寝ちゃったんだろうし。ホラ、僕が寝てたときだって何もなかったんでしょ?」
「……まあね」
渋々と言った様子で弓神が答える。怒りが持続していたわけでなさそうで、咲神は密かに胸をなで下ろす。
「溺れてたとき」
「僕が?」
「他に誰がいるんだよ。お前しぶといから多分死なないし、そのまま放って行こうかと思ったんだよね」
ざくざくと砂浜を歩きながら、酷いことをさらっと呟いて弓神は一旦言葉を切る。
「ユミユミ?」
「……けど、慈母が悲しむと思ったから……って何、感じ悪いな! 気持ち悪い笑い方するなよ!」
「いやー……いい人だよね、ユミユミって」
とうとう咲神が声を立てて笑うと、今度こそぱちーんと音を立てて頭を叩かれたが、平手だった。音の割には痛くもない。
咲神は大げさに頭を庇う。
「褒めただけなのに何で暴力なの!?」
「いちいち言い方が腹立たしいんだよ! まあ、お前の弟たちだって煩いだろうし、寝覚めも悪いしね……、何?」
ぐふうと変な風に笑いを飲み込んだ咲神の顔を、弓神は訝しげに見つめる。
「予想外に僕たちって好かれてたんだなって驚いなんでもないですソレ下げてごめんねっ」
頭上を風を切って振り抜かれた杵をしゃがんで避けて、咲神は早々に降参した。
「せっかく命拾いしたのに残念だったな」
「いや感謝してるよ。ありがとう、助かった」
弓神の目に戻った殺気に寒気を覚えつつ、これだけは本当に感謝の気持ちを込めて咲神がそう言うと、弓神がこれ以上はないぐらい顔を顰めた。
さらさらの前髪が少し俯いた顔に陰を作って凶悪である。咲神が素直に褒めただけなのに命の危機に晒されかけているのは自業自得だが、あいにくとその場で突っ込んでくれる存在は広大な海の向こうだった。
抉るような突っ込みが欲しいわけではないけれど、いや欲しくないわけでもないけれど、誰も止めてくれない状態が続くとこのままでは血の海が出来るかもしれない。
別に弓神の反応が面白いのがいけないとか思っているわけではない、決して。
「まあ、あんまり褒め称えてユミユミが恥ずかし死にしても困るしね……、だから何でそんな顔なの。わかった、わかったよ、もう! 止めとくからごはん探しに行こうよ」
「チッ」
必死さだけは無事に伝わったらしく、刺々しい流暢な舌打ち一つで何とか許してもらえたようである。トゲトゲだけなら弓神の標準装備なので問題はなかった。
「あ、あれさっき食べたの採った木」
咲神が指さした木は、怪しい熱帯雨林から一本だけ離れて立っていた。まだ熟していない実がちらほらとついているので、咲神の力を使えば熟させて食べることはできる。しかし、他に食べられそうなものも見あたらず、いつまで続くか分からない遭難生活で頼りにするには心許ない量だ。
「食べ物の前に、せめて真水は探さないと」
「だよね。食べ物もあれだけじゃなあ……。あ、ユミユミ、釣り道具は?」
「とっくにどっかで落としたと思うけど」
「だよねー……。はー……でも何でこんなことになったんだろう?」
「知るか」
つい吐き捨てたものの、それは弓神も知りたいところだった。
*****
昨日か一昨日か一昨々日か、とにかく数日前のどこかで、二人と蓮神、蔦神、それに壁神が五人で、小さな渡し舟を二艘出して釣りをしていたのだ。
咲神が頭をぽりぽり掻いてため息を吐く。
「壁ちゃんがものすっっっごい釣ってたよね。兄ちゃんとユミユミは俺たちと競争だー! とか無理だし」
咲神の弟たちは舟対抗の競争にしたかったようだが、壁神相手に魚釣りで勝てるわけがない。向こうの小舟の上の山と積み上げられた釣果が二人のやる気を奪い去ったので、早々と勝負を投げ、主にひなたぼっこに勤しんでいた。
「いつものことだろ」
「蓮と蔦は壁ちゃんから釣りの技を目で盗む、とか言って向こうの舟に乗って」
弓神もやりとりを思い出して、呆れ顔になる。
「宣言して本人から堂々と習ってるよね? 盗んでないし、ってかそれ、いつもだよね」
「あんなに壁ちゃんが教えてくれてるのに、全然上達しないんだよね。それで、壁ちゃんすごいな〜、僕らの舟当たり来ないな〜とか思ってたら、僕は寝てたね」
何故か偉そうに腕を組む咲神を弓神は蔑んだ目で見やった。
「……いや、大事なのはその後だよ?」
「ほんっとに覚えてないもん」
咲神は肩を竦めた。
「寝て起きたらここにいたとしか言えないや。ユミユミのほうが詳しいと思うよ」
「僕だってそんなに変わらないよ。起きたら舟が沈んでて、咲抱えて気づいたら浜だったし」
「困ったなぁ、場所もわからず舟もなしじゃ、やっぱり素直に助けを待つしかないか。お?」
砂を蹴ってざくざく歩いている間に見覚えがある景色が巡ってきた。
二人は早々に島を一周してしまったようだった。わかったことは、島は小さく丸い形をしていて、ぐるりと砂浜が取り囲み、遠浅の海が四方八方に広がり、群島の中の一つではあるようだが、隣の島とは距離がある。
そして真ん中には小さな禍々しい密林。
何かがあるとすれば、そう弓神が思ったとき、考えを読んだように咲神がにんまりと笑みを浮かべた。
「戻ってきちゃったね。じゃあ、行こっか」
口笛でも吹きそうな口調で咲神が指さしたのは、やはり怪しい密林である。
探索していない場所がそこしかないので当然といえば当然だけれど、一言、怪しい。
「ちゃんとは行ってないんだ。時間掛かりそうだし、何より楽しそうだからさあ、ユミユミと一緒に行こうと思って取っといたの」
鬱蒼と茂る森は、どこにも楽しそうな要素はない。常々感じていた感性の違いをここまで浮き彫りにされたこともなかった気がして、弓神はくらりとする頭を押さえた。
止める暇もあらばこそ、咲神はそれじゃ行こうと気楽に言うと、本当にずかずかと林に突き進んだ。
「おい!」
手を伸ばして引き留めようとするも、こういうときに限って咲神は素早い。
白い衣が暗闇の中にふっと消える。
弓神が思わず追いかけて密林に一歩踏み込むと、視界はいきなり暗くなった。見たことのないごつごつした木々に蔦が絡まりあって、人よりも大きな葉が押し被せるように上から迫ってくる。上からの光は全く入ってこないが、誰より夜目が利く弓神はあまり気にならなかった。
潮風が止んで蒸し暑かった。湿った土と植物の匂いと、押し潰されるような密度の高い暗闇に、弓神は背中が泡立つような悪寒を覚える。
弓神が慌てて見回すと、思ったより近くに袂をひらひらさせながら歩く咲神がいた。襟首を掴むと暢気な顔がくるんと振り向いて、慌てる気配もなく真っ暗闇の奥を指す。
「どしたの? 僕はこっちに行ってみようと思うんだけど、どう? なんかありそうじゃない?」
苦い顔の弓神はふと、咲神の指差す先に、何かがずるりと蠢くような動きを認めた。一瞬のことだけれど、どうか見間違いでありますように。
「い、今何かいなかったか……?」
「えっホント? どれどれ?行こう行こう!」
咲神は顔を輝かせると、いきなりうきうきと飛びだそうとするが、今度こそ襟首をがっちり掴んで弓神は離さなかった。
「やめろよ! いかにも怪しいだろ!」
「大丈夫、大丈夫」
安請け合いに苛立ちが止まらなかった。さっきあれだけ反省したそぶりは嘘だったのか、いや、喉元を過ぎて忘れたのだろう。実に鳥以上の鳥頭である。
「単独行動するつもりなら、僕を待つ意味なかったよね。最初から一人で行けばよかっただろ」
咲神がふっと口元を緩めた。
「ユミユミを待った意味なんてないよ! 僕が待ちたいから待っただけだしね」
「いい話みたいにまとめたけど、たった今、相ッ当、自分に都合よく話作ったよね?」
ぎりっと襟首を引っ張ると、余程苦しかったのか咲神が前襟を広げてぶはあと大げさに息を吸った。肩で息を吐いたのが演技というわけでもなさそうなので、襟元から手を離さないまでも力を少し緩めてやる。
「僕の気持ちに偽りはないよ! だってユミユミ行きたくなさそうだしー」
「行きたくはないよ。誰かさんじゃないから備えもなしで明らかに怪しいとこ突っ込んでくほどばかじゃないってだけだ」
咲神のぷうと拗ねたように口を子供っぽく尖らす姿が弟たちそっくりで、何か企んでるとしか弓神には思えない。一応釘を刺す。
「なんか怪しいけど大丈夫だって。ちょっと見てくるだけだからさー」
「何の根拠があるんだよ。普段なら絶対行かないよね」
何とか弓神の隙を見つけようと身を捩らせる咲神に、さすがに怪訝に思って尋ねる。冗談が過ぎた奴ではあるけれど、ある程度の引き所は弁えていると弓神は思っている。
今だって、いつもであれば、咲神自身が後先考えない弟たちを口八丁で言いくるめて、手を引くよう仕向けているような場面なのだ。本来であれば。
駄々っ子じゃないんだからさ、と弓神はぼやく。
「だって小さい子と女の子に怪我させらんないでしょ」
咲神に当然のように返されて、弓神は唖然とした。
何を言われたか、内容を理解してあまりの扱いの違いに逆上する。
「僕だけなら構わないって言うの? 何だそれ! 大体、あいつらのがお前より強いだろ」
「ユミユミだって僕より強いでしょ。じゃ、ちょっと行ってくる」
器用にするっと抜け出した咲神が駆けだした。白い袂が蝶のように翻る。
「僕は行かないって言ってるだろーっ!」
「知ってるってば、そこで待っててよ」
弓神は咲神に向かって、襟首の代わりに掴んでしまったぬるぬるする蔦を全力で投げつけたが、振り返りもせずに機敏に躱されてしまった。
こういうところが本当に嫌なのだ。
*****
動いたと見えた巨木の陰には何もなかった。
暗闇の中の見間違いだったのにはホッとしたが、自分だけ引き返すわけにも行かず、咲神を追いかけて倒れた大木を超えたところで、弓神は足を止めた。ぎっと奥歯を噛んで袖で口を覆う。
腐臭がする。異臭の中に混じるのは、どこか甘くてすえた、生き物が生きながら腐る臭いだ。
妖気はないがそれでも嫌な予感がして顔を出して伺うと、信じがたい光景が広がっていた。
見なかったことにしたい。しかし目に入れてしまえば無視もできず、ひどい臭いも忘れて思わず叫ぶ。
「なんっだコレは! わああああ、咲!」
弓神はこれほど自分の視力を疑ったことはなかった。
瘤だらけの巨木に絡みつくぬるぬるした生き物、のようなものがいた。奇妙な形だが、斑模様の肉厚の巨大な葉があり、地に這う醜い花がある。異臭の元は間違いなくこの植物だった。駆け寄ろうとするも足下が妙にふかふかするので倒木の上に飛び退いた。
やはり見間違いではなかった。
そこには首だけになった咲神がいた。
首はころんと動いて弓神を見上げる。
「うぎゃあああ!」
「ユミユミ〜足元注意〜……」
生首の力ない声に弓神は頭を掻きむしった。喋る。動く。どうやら生きている。
よく見ると、咲神は首を残して巨大な植物にぱっくりと食われていた。すっぽりと地面はまり込んで、地面に首だけ置き忘れた格好になっている。
「なあにやってんだよおおお前ええええ!」
「蔓に引っ掛かって転んで…………食べられた……?」
弓神が泡を食って叫んだ。その首に布でもかぶせて見なかったことにしてどっか行ってしまいたいと弓神は痛切に思った。
「知るか僕に聞くな! これ何なんだよ! お前首から下どうしたんだよおおお!」
「えっと……これは食虫植物……かな?」
困った口調の咲神が最初の質問に自信なさげに答えた。
「だから聞くな僕が知るかああ! えっ、食虫植物ってお前……虫……?」
「そこじゃないでしょ! 僕は虫じゃなくてお猿だよ! さすがにまだ全部ついてるってば! じゃないと死んでるよ! でも動かないでね、ユミユミの足元まで全部この子の体みたいだから」
生首の説明によると、腐葉土でふかふかになったところに本体を隠したこの植物は花をおとりに獲物をおびき寄せるらしい。
倒木から飛び降りようとしていた弓神はそっと足を元の場所に戻した。
「たぶん木の根本に寄生してるのかなあ。近寄ったら僕の二の舞になるよー」
死にかけている本人の悠長な言葉に弓神の頭も冷える。とりあえず首から下も存在しているらしく、今すぐ死んだりもしないようだった。心配の天秤が軽くなると、今度は怒りの方が重くなる。
「そこからどうやって出るんだよ?」
弓神は冷ややかな顔で言い放った。むしろ心配した分腹立たしさは倍増したが、そこまで察する余裕はさすがにないのか、察した上で無視しているのか、咲神は首だけでへらへらと笑う。
「流さないでよー。今まで黙ってたけど実は僕は虫とかじゃないからね?……いや、それこそ虫を見るような目で僕を見ないでくれるかなあ。世の中に動物をも溶かす強力な酸を持つ食虫植物がいるとは聞いたことがあるけど、一度取り込んだら骨まで溶かしきるまで口を開けることはないとか……あ、ちょっとごめん」
咲神が突然ぱったりと顔を伏せた。
「何、とうとう死んだの?」
いい加減展開も読めたが弓が一応声をかけると、次の瞬間くるんと頭が起き上がる。
「や、ずっと頭を上げてたから、疲れただけ」
弓神は杵を掲げて投擲の振りをしてみせた。冗談に付き合うのも限界に近いのである。
「そろそろ本当にその口塞いでやろうか」
「エンリョシマス」
「で、僕は動けないんでしょ? どうするのさ?」
「うーん……今日に限って何にも持ってないんだよね……」
首が絞まるううと言いながら咲神は身じろぎする。
そのとき地面がうねった。
地響きがする。みしりみしりと大木が軋みをあげ、奇妙な蔦と花がぶるぶると震える。
積もった落ち葉を飛ばしてぱかん、ぱかん、と蓋のような口が開いた。
腐った臭いに加えて鼻を刺すような臭いが漂い、弓神の目から勝手に涙が出てくる。鼻水まで出てきた。このままでは痛みで目を開けていられなくなる。夜目が利くといってもさすがに目を瞑ったままでは動けない。
何が何だか分からないが、咲神を助けるなら今しかなかった。
その生首改め咲神はというと、ぱかんと開いた蓋じみた捕食口の中で呆然として、悠長に周りを見回している。
「お前、笑ってるの……? あ、ワライタケのせいかな……」
「何やってんだよ! 逃げるよ!!」
倒木の上から飛び降りた弓神は、杵で徐々に閉まりかけている蓋を地面に叩きつけ、穴にはまり込んだままの咲神を片手で引きずり出す。
ぬるぬるの溶解液で滑ってすぽんと飛び出した咲神の手をぐいぐいと引いてその場から逃げ出した。
*****
ぴうう〜と間抜けな口笛が響いた。
「ユミユミかっこい〜」
「う、るッさい!!」
再び浜に戻った二人は砂浜に倒れ込んだ。
「あれ、何だったんだ……」
弓神が疲労とともに吐き出した。
明るい太陽の下に戻って振り返ると、靄がかったただの悪夢のような気もしてきたが、言葉に尽くしがたい悪臭がただの忘れたい現実だと知らせてくれていた。
「食虫植物だってば。僕ゆっくり溶かされて食べられるとこだったけど、うまいことワライタケが反応したと思うんだけど適当に作ったからよくわかんない。植物にも効くんだなぁ……ワライタケ強力版……帰ったらちゃんと研究しよう…………」
「お前、本当に反省」
「後でするぅ〜……あー気持ちいい……」
砂まみれになるのも気にせず、二人は砂浜を転がった。べたべたの体に乾いた砂が心地よい。
すっかり砂色になったところで咲神がぽつりと呟いた。
「鳥の砂浴びってこんな気分なのかなぁ」
「僕が知るか。……もう行かないからね」
「うん」
弓神がもう一度だけ密林立ち入り禁止について強く念を押すと、咲神も今度こそ素直に頷いた。
雲一つない青空に、緑がかった遠浅の青い海。太陽の位置もさほど変わらない。ものの半刻にも満たない時間のはずなのに、長い時間をあの密林で過ごしたような気がした。
もの凄く無駄な時間だった。
熱い砂の間に転がっていると、段々と呼吸も落ち着いてくる。
そして気になるのは林に入る前との違いである。
「臭い。体気持ち悪い」
「だねー。気持ち悪いから体洗いたいけど……」
反省を込めてか、一応控えめな咲神の発言に弓神は普通に頷いてやった。
色々ありすぎてとりあえずもう全部棚上げだ。怒る気力が今は沸かない。
「あの林にもう一度水を探しに行く気はないね」
「はー……、僕もさすがに……。海で洗うしかないか。乾いたらベタベタするから嫌だけど、この臭いよりはマシだよね」
「さすがに倒れそうに臭い」
ひとしきりぬるい海水で衣を洗い、日焼けすると体がひりひり痛くなるのは経験済みなので、とりあえずまた身につける。
強い日差しですぐに乾いてしまうだろう。
密林は立ち入り禁止となると、全くすることもなくなってしまった。
相変わらずぬるい潮風は肌を撫で、ちゃぷちゃぷと緩い波が膝下に打ち寄せている。
弓神は咲神を見た。咲神がにこりと微笑みを返す。
「で、どうする?」
「とりあえず、海じゃない?」
「そうだな」
「僕たち、暇だよね」
「まぁね」
わざとらしい微笑みを浮かべあって二人は距離を取った。
「勝負だユミユミ! 食らえ!」
「負けるかあ!」
飛び散る水滴が虹色に煌めいていた。
要は水の掛け合いっこである。
暇な子供がやることは古今東西かわらない。
ふと空を見上げた咲神が両手を挙げて叫んだ。顔に掛かった水も気にせず、ぴょんぴょん跳ねて両手を振り回す。
「助かったああ!」
「隙あり!」
杵で水面を浚うように振り抜けば、咲神が大きくよろけて、避けるように顔の前に手を挙げる。
「ちょ、ま、まっ、待って待って! 武器は卑怯でしょ!! 待ってって風姐が!」
咲神がよろけて尻餅をつく。その体勢のまま空に向かって大きく手を振った。弓神も思わず水を掛ける手を止めた。
「狼煙、見つけてくれたんだよ! おーい! 風姐!!」
心底ほっとした顔で咲神が手を振り続ける。
弓神が体を捻って振り仰ぐと、遠くの空から見慣れた白い航跡が近づいてくるのが見えた。
「思ったより楽しそうにしてるわね、アンタ達。弓ちゃんまで珍しい」
優雅に降り立った風神の恐ろしく遠くまで見渡す目は、咲神と弓神がむきになって水をバシャバシャ掛け合っているところを捉えていたらしい。
状況確認を優先するためだろうか、赤らんだ頬をごまかすように睨み付けた弓神をからかうことはせずに、風神の切れ長の目が笑みの形を作っただけでそれ以上触れては来なかった。代わりに茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せ、朗らかに言った。
「いいとこじゃなーい。お昼寝したら気持ちよさそうな浜だわねぇ。でもあの林は怪しいわね。ああいうところには行かないに限るのよねー。ほかにいいところあった?」
「ないね!」
必要以上に力を込めてばっさり切り捨てた弓神を、まだ恥ずかしがってるのかと不審に思う様子もなく風神は「そう?」と首を傾げる。
「心配してたんだけど、これは蓮ちゃんと蔦ちゃんのほうが正しかったのかしら」
弟たちの話が出たので咲神が口を挟んだ。
「あの子たち何て?」
「『こっそり兄ちゃんだけユミユミと遊びに行ってずるーい』ですって」
珍しく咲神が言葉に詰まった。
おそらく涙目になっているだろう。弓神は他人事として大変愉快な気分になった。石でも負わされたように落ち込む咲神など中々見られるものではない。
「そ、そんなの兄ちゃん特権に決まってるじゃないか」
「お前それやせ我慢だろ……」
咲神の声は涙まじりで、明らかにただの負け惜しみである。
「まあまあ。でもアタシもそんな気がしてたんだけど」
咲神の兄の威厳に関わる云々ではなく、二人が遊びに行っただけだという見解について当然のように肯定し、風神がピッと芝居がかった仕草で指を立てた。いつもなら弓神がイラッとしてトゲのある台詞の一つも吐いているところだ。まあ、ここは文字通りの救いの神様である。穏便に済ませてやろう。
今なら大抵のことには目を瞑ってもよいが、弓神には咲神と二人で楽しく行方不明になる趣味はない。そこだけは完全に否定しておきたい。しかし、風神は笑って取り合わなかった。
「壁ちゃんが二人が流されて行方不明で、って泣いて泣いて、今にも海に飛び込んで行きそうなんだもの。放っておけないしね、濡ちゃんに潮目読んでもらって飛んできたのよ」
手入れの行き届いた指先は優美に滑らかな頬に当てられる。
「流れが速くて、海を越えてるかもって言われたんだけど、本当にそうだったわね」
弓神と咲神が顔を唖然として見合わせた。
「僕たち、大海を越えたの!?」
「そうよ、むしろよく舟が持ったもんだわね」
海を遙か遠く越えた先にこの群島があり、群島の入り口までは濡神が辿り着いたけれど、二人が陸に上がってしまえば跡は辿れない。あとは風神が上から探すしかない。濡神は潮が流れる先をもう少し確認しに行ったとのこと。
「怖かったでしょ?」
「寝てたし、全然」
「全く」
むしろ本当の恐怖はその後にあった。念入りに記憶の彼方に葬りたい暗闇の思い出はつい先ほどの出来事で、細部は違えど二人の脳裏に鮮やかに蘇った。思わずぶるりと背筋を震わせる。
それを知らない風神はにっこりと破顔した。知らぬが仏である。
「アンタたちらしいわねえ。早く帰らなくちゃ。何か、心残りはある?」
「ない」
素早く言い切る。きっぱりとこれだけは二人の声が揃った。
「さてと、濡ちゃんに一声掛けて帰りましょうか。さあ、ぶっ飛ばすわよー!!」
弓神と咲神を両脇にがしっと抱え、風神が裾を翻して駆け上がる。みるみる小さくなる仮宿を見つめて弓神は風音に邪魔されないように声を張り上げた。
「咲!」
「なあにー?」
小脇に抱えられたまま咲神も返事をした。
「約束、守れよ!」
「当然!」
間を入れずに返った応えの必死さに、弓神は少し笑った。帰ったら友達を止める必要まではなさそうだ。
丸くて小さい島はすぐに点になり、見えなくなった。