湖の側の、大樹の脇の藪の、そのまた向こう側の岩の影。
猫は、涼しい場所を見付けるのが上手だ。日毎に強さを増していく日差しから逃れるように、
壁神はクタッと地面に寝そべって涼をとっていた。
ちょうど湖からの冷気が流れ込む位置にあるこの場所は、下手をすれば建物の中にいるよりも涼しい。
細い手足が、むにゃむにゃと蠢く。時折唇が緩むのは、夢を見ているのか、寝言でも口にしているのか。

と、いきなり聞こえてきた湿った土の音に、耳聡く壁神は飛び起きた。
全身の鈴が、一斉にそれぞれの音色を奏でる。
眠い目を擦り擦り、ぼやける視界を足音に合わせてみれば、そこにいたのはがっしりとした体付きの、壮年の男性。
爆神だった。所々で輪郭がぽこんと飛び出しているのは、抱きかかえてきた彼の子供達だ。

「ひとりか?」
「…うん」

短くとも力強い爆神の声に半分は目が覚めて、しかし半分は寝惚け眼のままで、壁神が応じる。
それ以上は聞かずに、爆神はよいしょと身を屈めて、抱いていた子供達をその場に下ろした。
一斉によちよちと転がるように走ってきた4人の子供に、あまりにも急な展開に理解が追いついていない壁神が、
目を白黒させつつ、ひゃあとかきゃあとか叫んだ。
すまんすまん、と、あまり済まないとは思っていなさそうな口調で、爆神が詫びる。

「家にいたんだが、なにせこの暑さだろう。
こいつらも汗まみれになってしまうし、涼しい場所へ逃げてきたんだ」
「ここを知ってたの?」
「いいや。壁、お前さんの気配を探した。自分で探すより、その方が早くて確実だからな」
「ふーん…?」

動く度あちこちから聞こえる鈴の音色に興味を惹かれているのか、
ころころと纏わりつく子供達へ忙しく目を配りながら、壁神が良く分かっていないような声を出した。
爆神は辺りを眺め、改めて自分達と壁神の他には誰もいないのを確かめてから、尋ねる。

「こう言っては何だが、ひとりとは珍しいな。
戻ってからはずっと、誰かと一緒のところばかり見ていたから」
「…ん…あの、ね」
「ああ」
「また、みんなと一緒なの嬉しくて…みんなと一緒にいられるの、大好きだけど。
でもね…まだ時々、ちょっと疲れちゃう事があるんだ」
「………」
「…ひとりでいたのが、すごく長かったから。
すごく寂しかったのに、その寂しいのに、あたし、いつか慣れちゃってて…。
賑やかなのは楽しいのに、ふっと窮屈で苦しく感じる瞬間があるの。
そんな自分がまた寂しいんだけど――でも、どうしょうもないから、そんな時は、こういうとこに来るんだ」

治るまで少しこうしてれば平気だよと、自分が話しだしたのと同時に声の途切れた方向へ目を向けた壁神は、
そこに涙ぐんでいる爆神を見て仰天した。
にゃっと全身が跳ね上がり、両の耳がピンと立つ。
りりん、とまた違った風に鳴る鈴に、子供達が、おー、と口を丸く同じ形に開けて聴き入った。

「ど、どどどどうしたの!?」
「いや…すまんすまん。
お前さんみたいな子供がそんな思いを――と思ったら、泣けてきてなあ…」
「もう…体おっきいのにみっともないよ」

自身が泣き虫寄りである事も束の間忘れて言う壁神に、爆神が、尚もぐすっと鼻をすする。
爆神は、あまり感情を隠すという事をしない。隠すのが下手なのではなく、隠そうという気がないのだ。
猪突猛進の言葉の通り、揺れ幅の大きい感情に忠実なるままに、嬉しければ全身で笑い、悲しければ声を枯らして泣く。
時として大袈裟とも言われるくらいに激しい、ありのままの感情の現れ。
それこそが彼の良いところであり、またからかいの種でもある。
暫くはそんな爆神の様子に気を取られていた壁神だったが、次には彼が、
子供達を自分のもとに送り出したその位置から一歩も動いていない事を、あれ、と思った。

「おじちゃんは、こっちに来ないの?」
「行ったら狭くなってしまうよ。そいつらチビどもは許してやってくれ」

有無を言わさず押し付けておいて、許すも許さないもないものだったが、
いまだ足取りもおぼつかない赤ん坊達は、その未熟さ故にか、壁神にとって重荷にはなっていないようだった。
良く鳴る鈴や、結んだ髪や、ぴこぴこ動く耳まで使って、意外と達者に、壁神は子供達をあやしている。
そんな壁神を、爆神はまるで5人目の子供を見るような目で、優しく見守っていた。

「ここにいたのか」

耳に良く馴染む声に、はっと壁神が目を向ければ、そこには草をざくざくと踏んで歩いてくる撃神がいた。
表情に乏しく、必要以上の事を語ろうとしない、ともすれば、怖い、と受け取られがちな男を見て、
壁神の顔が、目に見えて綻ぶ。
本当なら今すぐに飛び付いていきたいのだろうが、壁神は座ったまま、まとわりつく子供達をしっかりと抑えていた。
そんなところに、今度は爆神が顔を綻ばせる。
爆神とはまた違った逞しさを持つ撃神の体躯に隠れるようにして、
その背後からヒョコヒョコと、春を司る、花の三兄弟が姿を現す。
親指を後ろに向けながら、撃神が足を止めて言った。

「こいつらが暑い暑いとな…。それで、何とかしてくれと俺の所に来た」
「どうして、にいにの所に?」

壁神は、次々に身体をよじ登ってくる赤ん坊達を忙しく下ろしながら、不思議そうに首を傾げた。
暑さをどうにかしたくて訪れるのなら、彼ではなくて濡神や凍神の所だろう。
一見無愛想とも取れる目が、壁神に向けられる。
ひょっとしたらあれ以上近寄ってこないのは、赤ちゃん達が怖がって泣くからなのかなと、壁神はふと思う。

「お前だ」
「えっ、あたし?」
「お前なら、誰よりも涼しい場所に詳しそうだからな。
そして俺の所に来れば、お前もいると思ったんだろう」
「あったりー!」
「探し回るより、そっちの方が早いもんね」
「ほら、うっかりびしょ濡れになったり凍えたりしない、安全策ってやつ?」

どうやら誰もが、考える事は同じらしい。
苦笑するような気配を、爆神が厳つい口元に滲ませた。
ついでに、頭の導火線を引っ張り合いっこして遊んでいる我が子の姿に気付き、些か慌ててみたりもする。
無闇に陽気な弟ふたりに比べれば、まだ落ち着いているといえる咲ノ花神が、軽く肩を竦めた。

「ま、結局はこうして探す事になったんだけど」
「あっ、なんかごめんね…」
「なんで謝るのさー」
「あはは、変なの!」

順に笑う蓮ノ花神と蔦ノ花神にあわせて、壁神も笑った。
その脇で、撃神と爆神が目線で挨拶を交わす。
とかく気配りと目端が利く為に、誰ともなく自然と子守役に回っている機会の多い撃神と、
正真正銘の子育て中である爆神。
立場はまるで異なれど、嬉しげに笑いかわす年少者達を見守る姿には、互いに感じるものと通じ合うものがあった。

そうしながら、撃神の眼差しと注意は、殊更強く壁神へと向けられている。
壁神の大きな黒い瞳から、かつての怯えが消えつつある事に、撃神は無言のまま胸を撫で下ろした。
もともと人見知りと人懐っこさの両極に激しいところのある壁神だったが、慈母の元で再開を果たした時には、
撃神ですら露骨に眉を顰めるほど、誰かのぬくもりと声を求めてやまなくなっていたのだ。
あれは、一種の依存に近いものがあった。にいに、にいにと片時も傍を離れず、
またあちこちを彷徨い歩いては、警戒心も忘れてしまったように行き当たった筆神に駆け寄り、大声ではしゃぐ。
兄妹と称されるほど近しく過ごしてきた相手が見せた、そんな、ひどく不安定だった時期。
あの頃の飢えを思わせる瞳の色は、だいぶ薄れてきている。
本当に良かった、と、素直に思えた。

「…しかし、せっかく壁神が見つけた場所なのに、こんなに集まったのでは暑くなってしまうな」
「んーん、けどそれもいいじゃない! ああ全員いるんだな〜って感じがしてさ」
「ははは、確かにそうだ。
なにせ皆が戻ってきてから、初めての夏だからなあ」
「うん、そうだね!」

顎を摩りながら頷く爆神に、壁神も高い声で同意を示した。
顔を上げた拍子に、髪に付けた鈴が、りん、と鳴る。

「暑いのに騒ぎまくるから、余計に暑苦しくなるんだよ」
「ユミユミみたいな言い方するなよ〜、咲兄!」
「そうそう、お小言は無しね。
それより全員入れる日陰ができるくらいの、でっかい花咲かせてよ。そこで昼寝しよう!」
「できなくはないけど、根元に実も一緒に生えるやつでいい?」
「おいしい実なら大歓迎っ!」
「…目下頑張って改良中な、目が痛いくらいの刺激臭を皮から放つやつ」
「…それは勘弁」

三兄弟の喧騒に紛れるようにして、幾分俯いた壁神が、ぽそりと噛み締めるように繰り返す。

「…そうなんだね」

また、戻ってきたんだね。
呟く最後の方は、やや涙に霞んでいた。
壁神の頭に、ぽんと撃神の掌が乗せられる。その掌は頭をすっぽり包んでしまうほど大きくて、暖かい。
にいに。
おずおずと見上げる壁神に、撃神はごく小さく、だが確かな微笑みを浮かべる。
すぐ傍まで来ていた爆神が、先を越されたなあ、と豪快に笑った。

長い長い年月、ずっとひとりだった。それはみんなも同じだけれど、だから我慢しなくちゃいけないのだけれど、
そう思っても寂しくて寂しくて、悲しくて、焦がれて、ずっとひとりで鳴き続けていた。
でも今は、鳴けば誰かが答えてくれる。鳴かなくても、こうして誰かが隣にいてくれる。
その事が、それこそいつまででも泣き続けたいくらいに、嬉しくてならなかった。
壁神は、太陽を一杯に受けた景色をぐるりと見渡す。
完全に元の姿を取り戻すのは、もう少し先の話だとしても、タカマガハラの夏は、いつかの懐かしい昔と変わらず暑い。




話部屋」の田鰻さんよりもひとつお話頂きました!
細やかな真理描写が本当にイメージぴったりでですね…!壁ちゃんよかったねえよかったねえ(´;ω;`)ブワッ
並べてあったもののいまひとつ活かされてなかったキャラ設定を丁寧にサルベージして花開かせてもらった感じです。
そうそう、最初はこんな感じで考えてたんですよ!!(…)

\初心に帰れ!/\初心に帰れ!/

なにはともあれ、本当にありがとうございました!