「夏である」

不運にもその場にたまたま居合わせてしまったのは数名だったが、
唯一これだけは容姿に忠実な愛くるしい声を聞いた誰もが、ああ夏だな、と納得した。
夏。彼らの主君たる太陽が誇らしく輝き、空が、海が、木々が葉が大地が、持ち得る最も濃い色に彩られる季節。
夏である。今が、丁度その季節に当たるという事実の指摘。
これでは、浮かべたくとも他の感想など浮かべようがない。なので、口を開く者は誰もいなかった。
開いたとて、出てくる話題はせいぜいが、そうですね、と相槌を打つ程度が限界であろう。

「夏なのである」

今度は、ピクリと数名のこめかみ付近が動いた。
何故に、彼は繰り返したのか。わざわざ二度言うまでもなく、見渡す世界はこんなにも夏だというのに。
周囲の無反応に業を煮やしてとも思えるが、それも業を煮やすという行為に一欠片でも縁のある者が行えば、である。
ましてや延々同じ事を繰り返すというのは、とある現象を想起させるもの。そしてこちらの方には、彼は大いに縁がある。
先程よりは増えた、集まる視線の中、大きな目をした子供そのものの顔が、くるりと振り向いた。

「つまり慈母である」

確信に満ちた口調であった。
言い切る声音に茫洋さは微塵もなく、黒々とした瞳は真っ直ぐに前を見据えている。
爺さん遂に本格的にボケたかと、一同は暗澹たる思いでそれを見つめた。



詳しく話を聞いてみれば、別にそういう訳でもなかった。
嫌がる皆を代表して、というか押し付けられてというか凍神が聞き出した話を要約すると、
せっかく夏まっ盛りなのだから、夏が好きな慈母の為に我ら筆神達で何かをしてあげよう、という事らしい。
とかく要領を得ない断神からここまでの話を引き出すのは、四苦八苦どころの手間ではなかった。
真面目一辺倒で融通というものの利かない凍神だったからこそ、逆に最後まで粘り強く付き合えたといえる。
まさに適材適所。仕事の押し付け合いは結果として最良の選択を生んでいた。
ただ実際の所、慈母が好きな季節は夏に限った話ではない。 春は陽炎、秋は紅葉、冬は白雪、そして季節は巡り行く。
彼らの主たる神は、いついかなる時も天上に座する日輪そのままに、春夏秋冬すべてを等しく愛する。

が、それはそれとして、この断神にしては奇跡とも呼べる建設的な提案は、概ね歓迎された。
飽きもせず続く歳月の循環。そこに身を浸すうち次第にぼやけていく境目を、こうして確かめるのは悪くない。

「取ってきたよ」

見事なまでの仏頂面で、弓神が成果を報告する。
屈んで広げた細い両腕から、ごろごろと大量の果物が転がり落ちた。
慈母の為に何かをしてあげよう。では、慈母が喜ぶ事とは何か。
答え、食べ物を与える。
全員が即答した。およそ協調性という概念から結界でも張られて遠ざけられているのではないかと思えてくる、
個性派揃いの筆神達の意見が瞬時に完全なる一致を見せた光景は、居合わせた者たちの胸中に、
小さな感動すら呼び起こすものがあった。あまり季節と関係ないのではないかと控え目に挙手をする者もいるにはいたが、
案の定真剣に顧みられる事はなかった。誰であったのかはあえて語るまい。そして言うまでもない。

ひと仕事を終えた弓神が、やれやれと肩を揉む。
慈母に献上する食べ物を探してくる、という、ある意味で最も栄誉ある役目を果たしたにも関わらず、
その表情は芳しくない。不平そうに吊り上がった目尻を見ていれば、
彼が、面倒事を押し付けられた程度にしか考えていない事は、火を見るより明らかである。
かといって、ぶつくさ文句を言いつつも断るまではいかない所が、また彼の彼たる所以なのであるが。
単に、ごねて事態が長引くのが面倒だっただけなのかもしれない。
不満を訴えながらも仕事は完璧に果たした弓神に、パチパチと手を叩いて、幽神が率直な賛辞を贈る。

「えらい、えら〜い。よくできましたぁ〜んふふふふ〜」

率直な、酔っぱらいの賛辞を。
ちなみに幽神だけが後からの参加である。参加というか、酒片手に徘徊していて偶然一同と遭遇してそのままというか。
尤も初めから居合わせていなかったのは、断神以外の皆にとって極めて幸いであった。もしもあの「夏である」の場に、
よりにもよって泥酔状態に近い幽神がいたならば、事態がまとまるまでには更なる紛糾をみたであろう。
その場合に割を食うのは凍神である。とことん損な性分であり役回りの男であった。
おそらく半分も状況を把握していないと思われる幽神は、仄かに紅く染まった頬を、えへらえへらした笑顔に緩めている。
至福の只中にあるのは間違いない。弓神は今にも舌打ちでもしそうな半目を、そんな幽神に向けると、
やがて諦めたように長々と溜息を吐いた。

「やりたくないけど、しょうがないだろ。酔っぱらいとボケ爺と鈍牛じゃ埒が明かないし」
「だから鈍牛って言ってやんなよ。凍兄が鈍牛なのは濡さんの前だけで、普段はそれなりに頼りになるだろォが」
「そう、それなりに、ね」
「あははははは」

言いたい放題な三者の会話を背に、燦々と降り注ぐ陽光の下、凍神はひとり影を背負いつつ黙々と作業に勤しんでいた。
指を揃え、掌をかざす。冷気が渦を巻いて集中し、大人でも一抱えはありそうな氷塊が次々に作り出されていく。
どさり、とそれが草原に落ちる側から、控えていた断神が剣を振るっていった。岩の如き大きさの氷が、
瞬時に片手に乗せられそうな程度の塊に分解される。その度、透き通った氷の粒がきらきらと光を映しては散る様を、
なかなか綺麗なもんだと、のんびり煙管を吹かしながら燃神は眺めていた。
金輪際関わらないぞというような態度を示していた弓神も、渋々、杵を担いで氷の解体に加わる。
なんだかんだで、良く働く。そんな様を見透かしたかのように、弓神が横を通り過ぎざまに、凍神はフッと微かに笑った。
聞こえていたのかいなかったのか、振り返りもせずにつっけんどんに言い放つ弓神に、その笑いが固まる。

「あんまり頑張りすぎて冬になられても困るからさ、適度に手抜いた感じで頼むよ。
つまり鈍い感じね。いつもみたいに」
「ううう…」

あーあ、と、燃神が額を押さえて首を振った。
彼の位置からでは両者とも背中しか見えないが、わざわざ正面に回り込むまでもなく、
どちらの今の表情もこの上なく明確に、閉じた瞼の裏に描き出せる。
淡々と振り被っては下ろされる弓神の杵と、段々と丸まっていく凍神の背筋を見ながら、ようやく燃神も立ち上がった。

「そっちは、そろそろいいだろ。次こっち頼むぜ、凍兄」

凍神は頷くと、法螺貝を外して口に当て、極めて慎重に息を送り込んでいった。
遅々とした音声が地を這うように奏でられるにつれ、先程までとは比較にならない広範囲の冷気が、場に凝集を始める。
中央へ向かい緩やかに流れ始めた風に、燃神の羽織の裾が吸い込まれるようにはためいた。
弓神の吐き出す息が白を帯び、あらあ、という、幽神の間延びした声が聞こえる。
風は、すぐに止んだ。
一同の目の前には、見上げるような巨大な氷塊がそびえ立っていた。
高さも胴回りも、これまた先程のものとは段違いである。仮に燃神と凍神がこの氷塊を挟んで向い合って立ち、
目一杯に腕を伸ばして抱いたとしても、互いの手と手は届かないかもしれない。そのくらいに大きい。
法螺貝から口を離し、ふぅと短く息をつく凍神に、まばらな拍手が起こった。浅く頭を下げて応える彼も、また律儀である。

ここからは、燃神の仕事だ。
掌に、時には指先に灯した炎で氷を溶かして、目指す形にしていく。
筆神達が作ろうとしているもの、それは大きな氷の器に、夏の果物と砕いた氷を詰めた、何とも粋な一品であった。
冷えていようと冷えていまいと気にする性質の慈母とも思えない、そんな予感は全員薄々感じていたものの、
始まりの動機が「せっかくの夏だから」という軽いものだったのだから、
こちらの出した答えも「せっかくなら冷えていた方がいいだろ」程度の軽いもので構わないのだ。
敬意の中にちょっとした遊びを、遊びの中にちょっとした敬意を。それで、彼らが何よりも誰よりも大切とする存在は、
優しいのか嬉しいのか眠いのか良く分からない形に瞳を細めてくれるだろう。それで、充分だった。

さほど時間はかからず、器は完成した。
というより、あまり時間をかけていては、暑さと燃神の熱で溶けてしまう。
表面に彫刻を施す程の時間は無かったし、やれと求められても燃神も困惑しただろうが、
一応はそれらしい器の形になっていた。あとはここに砕いた氷と、弓神が運んできた果物を入れれば準備完了である。
溶かす前にと器から離れて伸びをする燃神に、ごくろうさま、と凍神が落ち着いた声をかけた。

「じゃ、さっさと詰めちゃって慈母呼んでこようか」
「む…これはなかなか重い、のである」
「断じいは休んでろって、腰でも痛めたらまずいから。凍兄、悪ィけど頼んでいいか?」
「ああ、わかったよ」

などと皆が話しているところへ、ふらふらと徳利を抱えた幽神が、不吉な満面の笑顔を湛えて近寄ってきた。

「あとは〜、ここにお酒を注いだら完成ね〜」
「「「注ぐなあああ!!」」」

えっこらせと大徳利を傾ける幽神に、燃神と凍神と弓神が揃って絶叫した。
それはそれで、洒落た趣向の品となりそうではあるが。



さて、かようなる経緯を経て献上された件の氷の果物器が、我らが慈母のいかなる歓待を受けたかというと。

「あーっ!?」

一撃で破壊された。

暫し佇むや、半開き気味の唇から出てきたのは歓声ではなくて短い気合い。
とても氷とは思えない重々しい音を響かせて、器が砕ける。久々に見る慈母の蹴り技は、それは秀麗であったそうな。
慈母の強さと威光と食欲と突飛な行動には身に染みて慣れている筆神達も、これには些か呆然とさせられた。
当の慈母はといえば、そんな彼らの心境もどこ吹く風で、転がり出した果物を拾っては満足気にもぐもぐとやっている。

「じ…慈母、何を?」
「食べるのに邪魔だったから、じゃないの」
「うむ。眼前に妨げあらば、之、破壊すべし。さすがは慈母なのである」

早々に現実に立ち返り、頭の後ろで手を組みながら言った弓神に、
ひとり断神だけが腕組みをして、深く納得するものがあったように、うむ、うむ、と何度も頷いていた。
彼にとっては、色々と得るところのある慈母の行動だったようだ。

ごくん、と慈母の喉が動く。
ようやく思い出したように、その瞳が筆神達を見、静かに穏やかに微笑む。
ああ、我らが慈母。
口の周りに果物の皮や食べかすが付いているので、割と台無しであったが。

「…ま、いいか」
「…そうだな」

最後まで唖然としていた燃神と凍神も、山積みとなったきらめく氷の残骸に囲まれて果物を頬張る慈母が、
心の底から幸せそうだったので、この結末はこの結末で大いに有りだと思ったそうである。
手当たり次第、掴むを幸い頬一杯に果物を詰め込んでいく慈母の姿は、狼というより何だか栗鼠のように見えた。
それでもやはり冷たいのか、時折きゅっと小さく眉を顰めるのが、まあ効果はあったのかなという感じである。

「ん〜、素晴らしいっ! これぞめでたしめでたし、ね〜」
「何がだよ」

杯に満たした酒に小さめの氷を浮かべ、冷酒〜、とか何とか言いつつ呷っていた幽神も、また独自に幸せだった、らしい。



話部屋」の田鰻さんより夏のお話頂きました!
「なんだかんだで有事の際にはすごいかっこいいリーダーだって信じてますよ凍兄…。」って言われて
そういえば(一応)リーダーだったなって思い出しました(酷い)
慈母とみんなの関係性が頭の中見られたかってくらいイメージぴったりでおののくばかり…!
夏らしく、涼しげかつ熱い(笑)お話ありがとうございました!