「あ」
 口を開けた燃神の前で、お櫃(ひつ)の箍が嫌な音を立てて外れ、丸く組み合わされていた木の板が花が咲くようにぱっくりと散らばった。
 炊きたての米を釜からお櫃へ移そうとしていた燃神は、持ったままのしゃもじを所在なげにくるくると回したが、残念ながらそれでお櫃が元通りになったりするわけではない。
 物の少ない燃神のこと、あいにくお櫃の代わりになるものも見当たらない。
 燃神は湯気を立てる釜の中のつやつやご飯と、無残な姿に成り果てたお櫃を見比べると、肩を落として釜にしゃもじをさっくりと突き立てた。

*****

「作りすぎじゃないのー?」
 割れたお櫃を横目に、ぱりぱり音を立てて海苔を噛みながら言ったのは蔦神である。
 皿の上に海苔付きお握りがこんもりと山をなしていた。
 蔦神はちょうど通り掛かって声をかけられたのだ。
「お櫃が割れたからしょうがねェんだよなァ」
「……むぐむぐ……お櫃って壊れるものなんだねー」
「長いこと使ってたんだけどなァ」
 燃神が板についた傷をこんこんと叩く。随分長く使っていたのですっかり色も変わって、至るところに小さな傷がある。
「蘇のじーちゃんとこ行けばすぐ直してもらえるでしょ。それより、燃兄、お米炊きすぎじゃないの? すぐ悪くなっちゃわない?」
「そうでもないゼェ。慈母か断のじーちゃんが来ればこれでも足りねェしなァ」
「ふーん」
 蔦神はもくもくとお握りを頬張ると、ご馳走様でしたと行儀よく手を合わせた。
「兄ちゃんたちに持ってくかァ?」
「うーんと、最近ごはん炊いてないから喜ぶかもー」
「はは、それじゃあいっぱい持ってってやれよォ」
 食生活が気になる花神たちであるが、そこは本題ではない。
 竹皮で包んだお握りをいくつか持った蔦神を見送ると、燃神は残りのお握りも竹皮に包んで、風呂敷にまとめて家を出た。
 数日分の糧にしようと大量に米を炊いたものの、お櫃がなければ乾燥するし、すぐに悪くなってしまう。
 しかし、ご飯を食べるときに毎回米から炊くのも面倒だ。何より炊いた米を保管するところがない。
 お櫃がない生活がこれほど不便だとは。

「というわけで、ちょちょいのチョーイとよろしく頼むぜェ」

 巨大な風呂敷包みから現れたお握りの山とお櫃の残骸を前に、蘇神は苦々しい顔で腕を組んだ。
「それが物を頼む態度かえ。全く嘆かわしいもんじゃ」
「ハハハ、土産もあるし、これで許してくれねェかなァ」
 庵の上がり口に腰掛けて、燃神が笑顔でお握りの山をどんと差し出したが、蘇神は余計に眉間の皺を深めてそっけなく言った。
「わし一人でこんなに食えるか」
「そりゃ勿論じーちゃん一人じゃ無理だろうけど、ここに置いとけば断のじーちゃんが食いに寄ったりするだろォ」
 蘇神が微かなため息をつく。
「ま、なんにせよ飯が無駄になるよりいいよなァ」
 そう真夏の空のようにカラッと言うと、燃神は「本題はこっちでェ」と割れたお櫃を蘇神に差し出した。
 蘇神は木の板を手に取ってためつすがめつする。
「お主は物を大事にも出来んのかえ」
「俺なりに大切にしてたと思うんだけどなァ……これ、昔じーちゃんに作ってもらったんだよなァ」
「そうじゃ。全く。壊れるような造りではないんじゃがな」
 扱いの悪さをちくりとやられて燃神が頭をかく。蘇神は決まり悪そうな燃神を放って、風呂敷包みにお櫃をまとめてさっさと土間に下りた。
 燃神が小さくなって心なしか姿勢を正した。
「しょうがないのう……。しばらく待っておれ。それとも後から取りに来るか」
「……ぱぱっと直してくれるんじゃねェのかァ?」

 燃神は蘇神の力でお櫃を元に戻してもらうために来たのだ。蘇神は意外な顔をする燃神に当然のように言った。
「慈母の御力をかように下らぬことに使えるか」
 しかし、その代わりにわざわざ手ずから直してくれるらしい。
 力を振るえば一瞬で新品同然になるものを、燃神が壊れたお櫃をそれなりに長い間大事に使っていて、使った跡がない状態に戻るのが少し残念だった、というのが蘇神にはお見通しだったのだろうか。
 燃神は破顔した。きっとそうなのだろう。
「ここで寝て待っててもいいかなァ」
「好きにすればよかろう」

 そう言い置かれたので、蘇神が庵を出たのをいいことに、燃神はその場でぱったりと仰向けに寝そべった。
 蘇神が開けていった入口から、元から開けられた小窓へさあっと抜けていく風が肌に心地よく感じる。
うとうとしているうちに、庵の裏の方から木を打ち付けるコーン、コーンという高い音が聞こえてきたような気もしたが、どうせならじいちゃんの作業を横で冷やかしたほうが楽しかったかなァ、とか何とか脳裏の隅を掠めたところで、燃神の記憶は途切れた。



「こら、まだ寝ておるのか」
「あイテッ」
 ぽこん、と頭を叩かれて燃神が飛び起きたときには、太陽はすでに沈みかけていた。
 目をあけると、目の前が何かで塞がれている。木の匂いがするものを持ち上げると、きつい西日が起きぬけの目を刺した。
「ほれ、持って帰れ」
「おお! すっかり元通りだぜェ……さすがだなァ」
 燃神が寝転がったまま、頭に載せられたお櫃をくるくると回してみると、この上なく頑丈に箍が嵌っている。古ぼけた板がそのまま使われている状態で、すっかり元通りになっているのが燃神の頬を緩ませた。
「また、よろしくな。相棒」
 燃神はがばりと起き上がると、ご飯の相棒を脇に抱えて立ち上がる。
「じーちゃん、またちゃんとお礼に来るからなァ」
「気にするでない。それよりもう壊すでないぞ」
「はは、さすがにすぐは壊れねェ……あれェ? じーちゃん握り飯は?」
 いくら鳥目の燃神とはいえ、薄暗くなった室内であってもお握りの大山の有無ぐらいは分かる。
 燃神の隣にあったはずのそれは忽然と姿を消していた。
「……いつ断のじーちゃんが来たんでェ? 俺、全然気がつかなかったぜェ……」
 しばらく黙って遠い目を燃神に向けていた蘇神は、深いため息で答えた。
「お主という奴は…あやつが隣であれほど握り飯を貪り食っておっても気づかぬのか…」
 ぼりぼりと腹をかいていた燃神が目を丸くした。
「エェ! 何で起こしてくれねェんだじーちゃん!」
「いくら声をかけても起きなんだくせによう言うわ。勝手に家に入って物を食うやつなぞ知るものか。お主はお主で何故あれで起きぬ……いいから、お主はさっさと帰れ」
「いやァ、握り飯作って俺も疲れたのかなァ……って、えーとじゃあ俺帰るわ。じーちゃんありがとな!!」
 燃神は蘇神の鋭い眼光を前にして、可及的速やかに背を向け、去ることにした。
 じーちゃんの機嫌を読むのは難しい、と思いつつ。

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 ちなみにお櫃とは炊いたお米をおいしく数日持たせることができるという代物であるが、真夏のような温度では、お櫃に入れようと何に入れようと炊いたご飯の室温保存は悪くなるのが仕様なので、ご注意めされたい。