※このお話は前回の「撃壁燃凍」小説の後日談です。


 蓮神と蔦神が雷にひやっと頭を竦めたときに、ガタガタと扉が開いて、水びたしになった壁神が顔を出した。
 ちりん、と鈴の音が鳴る。

「あ、壁ちゃん」
「わあ、早く入って! 入って!」
 壁神を中に迎え入れて雨が降り込まないように慌てて木戸を閉める。
「外、雨すごいねー」
 蔦神が差し出した手ぬぐいを受け取って、壁神がほっと息をついた。
「傘が全然役に立たなかったの」
「大変だったねー。傘こっちにちょうだい。乾かしとく」
「ありがと」
 蓮神が濡れて重くなった傘を受け取って、すでにいくつも傘が乾された土間に広げると、滴った水が土間に敷き詰められた石に小さな水たまりを作った。
 遠慮する壁神に家に上がるように勧める。
「ちょっとぐらい家が濡れたって大丈夫だよ」
「昨日からすごい雨だったでしょ? だから壁ちゃん、来られないと思ってたんだ」
 髪を拭いていた壁神がぱちぱちと瞬きをした。
「家の辺りはそんなに降ってなかったの。こっちに来てびっくりしちゃった。昨日の晩は晴れてたって、にいにが言ってたんだけど……」
「そうなの?」
 蓮神と蔦神が顔を見合わせて首を傾げた。
「すごい雨だったよね」
「うん、俺は家が流されるかと思った」

「家ごと流れてしまえばよかったんだ」
 憎まれ口に壁神がびっくりすると、奥に座っていた弓神が三人が溜まっている入り口にうんざりした視線を投げたところだった。壁神が笑顔を向ける。
「あ、弓ちゃんも来てたんだ。ちょうどよかった」
「ちっともよくないよ。こいつらがあんまり来い来いうるさいから来てやったら、朝から人の隣でずーっと喋ってるんだ」
 弓神が億劫そうに吐き捨てる。
 しかし「ユミユミだもんね〜」と笑い飛ばす蓮神と蔦神に全く堪えた様子はない。
「昨日の夜は、燃のお兄ちゃんと凍のお兄ちゃんが来て一晩中外で寝てたみたいけど、大丈夫だったって言ってたよ。朝になって雨が降ってきたから慌てて帰ったんだって」
「へえー、壁ちゃんちの周りだけ晴れてたのかなあ?」
「不思議だね」
 怪訝そうに言った二人の興味は、早くも壁神が持ってきた瓶に移っていた。
「ねえ、この瓶なにー?」
 麻紐でくくった小さな瓶を数本、壁神が土間に置いたままだったのだ。
「にいにからの差し入れ持って来たの」
 差し入れ、と聞いて蓮神と蔦神はわくわくと身を乗り出す。
「何かおやつ?」
「そうだよ。冷たいお水ある?」
「あるよ。持ってくる」
 壁神がきょろきょろ周りを見回した。
「そういえば咲ちゃんは?」
「あれ、兄ちゃんいないね」
「部屋じゃないの? 朝から何か作ってたから、まだ壁ちゃんが来たって気づいてないのかも。ついでに呼んでくる」
 蓮神は奥の扉に声だけ掛けると、すぐに水滴がついた水差しを運んできた。

「なぁに、これ?」
「にいにがザクロの果汁を砂糖で煮詰めた……って言ってた」
 壁神は、撃神に習った通りにとろりとする赤い液体を器に入れ、水に溶かして蓮神と蔦神に渡す。
 二人は瞬く間に飲み干した。
「甘うまー!」
「しみわたるね〜」
 感動に打ち震える二人ににっこり笑顔を向けて、壁神は弓神の分も作って差し出した。
「はい、弓ちゃん」
「僕は別に喉乾いてないからいらないよ」
 ふいっと顔を背けた弓神は、見るからに虫の居所がものすごく悪かった。
 勝手に二杯目を作っていた蓮神と蔦神が困ったように顔を見合わせる。
 朝からずっと何をしても不機嫌なのである。イライラしてばかりの弓神に二人もどうしていいかわからなかったのだ。
 強い拒絶に壁神の大きな瞳がじわりと潤み、慌てた蓮神と蔦神ははらはらと言葉を探した。


「つれないなあ、ユミユミ〜」
「ユミユミって言うな! 重い!」
 突然肩に掛かった重さを反射的に突き飛ばして、弓神が嫌そうに顔をしかめた。
「痛てて」
「あ、兄ちゃん」
 蓮神と蔦神からほっとしたような声が出る。不機嫌なユミユミは兄ちゃんに任せるに限る、と学習能力がないでもない二人は学んでいた。
 たとえ、突き飛ばされた先でぶつけた頭を抱えてそこで唸っているような兄だとしてもだ。
「何か出来た?」
「今日は無理そう。と、それより壁ちゃん、雨大丈夫だった?」
「うん……ちょっと濡れたけど……」
 弓神の冷たい態度に少し目を潤ませた壁神が小さく頷く。
 責めるような目を蓮神と蔦神から向けられ、弓神の機嫌はさらに急降下していた。
「咲には関係ないだろ」
「うん、ないよね。あ、壁ちゃん、それ僕がもらっていい?」
「うん……」
 壁神はちらりと弓神を見て、咲神に器を渡した。少し舐めて「あ、おいしい」と呟くと咲神は中身を一気に空けた。
 そして、弓神ににっこりと微笑みかける。
「僕には一切合切、何の関わりもないんだよね?」
 そこまで言われると弓神の顔もさすがに引きつる。
「……ないけど」
「で、ときに僕と無関係のユミユミ」
 警戒もあらわに弓神が嫌々返事をした。
「……何だよ」
「昨夜はひどい土砂降りだったね」
「ハァ? 僕がいるところで雨なんか降るわけないだろ?」
「そうだよね」
 咲神の口がにんまりと笑みと作る。夜、弓神がいるところは常に月夜だ。濡神が意図的に雨を降らせない限りは。
「そうなんだよね。降らないんだよね?」
「……何が言いたい」
「べっつにィ」
 不機嫌な弓神をさらに挑発するような咲神のふるまいに壁神が慌てて止めに入る。
「二人とも喧嘩は……」
「喧嘩なんてしないよ。僕とユミユミが仲良しなのは、壁ちゃんも知ってるだろ? ……ユミユミがものすごーく親切なのも」
「なっ……」
 弓神が眉を跳ね上げた。異論反論が渦巻いて言葉が出ないのだろう。怒りが過ぎたのか顔が少し赤くなっている。
「弓ちゃんは優しいけど……」
 今日は何だか冷たい、とは言わず、壁神はしょんぼりと肩を落とした。

 そのせいか、あるいは弟たちの「ユミユミと遊ばないで何とかしてくれ」という念がこもった視線を受けたせいか、咲神が突然がらりと口調を変えて言った。
「いきなり冷たいの飲んだらお腹が冷えちゃった。雨降っててちょっと寒いしね。お前たち、コレお湯で割ってもおいしいそうと思わない?」
 その途端、微妙な雰囲気など食べ物に比べれば割とどうでもいい蓮神と蔦神が目を輝かせた。
「お湯割り!」
「うまそう! お湯沸かしてくる」
「壁ちゃーん! 僕たち火をおこすの苦手だから手伝って」
「手伝ってやってくれる?」
「あ、うん……」
 後ろ髪を引かれるような壁神を引っ張って、蓮神と蔦神がお湯を沸かしに行くのを見送った後で咲神が口を開いた。
「お湯割り、本当においしそうだよね。ユミユミ飲まないの?」
「だから何が言いたいんだよ。さっきから!」
「ユミユミさー、何でそんなにとげとげしてるのさ」
「いつもと変わらないだろ。説教でもするつもり?」
 宥めるように言っても突っかかる弓神に咲神は得体の知れない笑みで首を振った。
「いいや。僕はユミユミって親切だよねって話をしようと思って」
「何が……」
 弓神はますますにんまりと嫌な笑みを浮かべる咲神から距離を取る。
 目隠しのせいで咲神の表情は読みにくいが、弟たちとよく似た顔立ちにいたずらが成功したときのよく似た表情を浮かべているのは想像ができた。
 腹立たしい。

「昨日、壁ちゃんちの周りだけ雨が降らなかったのはなぜかな?」
 指摘されて、ぐっと詰まった弓神が怒りで紅潮したまま、咲神を睨みつける。咲神はどこ吹く風でガタがきた自室の扉をこんこんと叩いた。
「話、全部聞こえてたの。家の壁が薄いんだよね」
「……黙って盗み聞きなんて趣味悪いよ」
「じゃあ趣味が悪いついでに、壁ちゃんに教えてあげていいかな。ちょっと考えたら誰でもわかる。ユミユミが昨日の夜――」
「うわーっ!」
 弓神が咲神の口を塞ぐ。
 かまどの方から壁神の心配そうな声がした。
「どうしたのー?」
 誰かが見に来る前に、弓神が叫び返す。
「何でもない! 来ないでいいよ!」
 もがもがと何かを言おうとする咲神の行く手を塞いで、弓神は刺すように睨み付けて、やけになったように叫んだ。
「だから! 通りがかりに酔っ払いがゴロゴロとマグロみたいに寝転がってて鬱陶しかったんだよ!」
「ん、だから?」
 やっと自力呼吸にたどり着いた咲神がぷはーと息を吐く。
「だから……」
「ユミユミは、そのマグロさんたちが濡れないようにこっそり『月光』を使ってあげたんだ?」
 図星をつかれた弓神の顔が真っ赤になって、行き場のない羞恥心にぷるぷると震える。
 柄にもない親切な行いが自己嫌悪をあおり、それが強烈な不機嫌に転換されていたものらしい。
 咲神はこっそりため息をついた。八つ当たりも甚だしい話である。
「……誰にも言うなよ!」
 咲神は再び乱暴に襟を掴まれて、揺さぶられる。
「……言わないけど。というか言っても感謝されるだけだと思うけど」
「そんなのはごめんだね!」
 寝ていたという燃神と凍神は知らないが、撃神あたりは気づいているんじゃないだろうか。そう思ったが咲神は口をつぐんだ。知らぬが仏、慈母のみぞ知るということもある。
 本人は気づいていないようだが、叫んで暴れて弓神の機嫌は浮上していた。また不機嫌に戻すこともないだろう。

 それにもっと切実な問題もあった。
「ユミユミ、そろそろ手を離して……」

*****

「お湯沸いたよー」
 にぎやかに戻ってきた蓮神と蔦神は、賢明にも何も言わずに目を瞠った。

「……そんなに憤懣やるかたないんだったらさあ。次にマグロさんたちに会ったときに直接やってよ」
「ふん、もういいよ。別に」
「いくら僕の心が慈母の次くらいに広いからって、限界というものがあるんだよ」
「誰の心が何だって?」

 とげとげしいやりとりは続いているものの、弓神の雰囲気は随分と穏やかなものになっていた。顔だけは不機嫌だけれども。
 兄ちゃんが何かしら頑張ってくれたらしい。
 弟たちの尊敬を体で勝ち取った咲神は疲れた顔でちゃぶ台に沈んでいた。
「あ、ありがとう。ユミユミもやっぱりザクロ飲んでみたいって」
 蓮神と蔦神に何と励まされたのか、壁神も普通に戻ったように見えた。
「よかった。あったかいのがいい? それとも冷たいの?」
「なっ、僕そんなこ――」
「飲むよね?」
「な……う」
 ちゃぶ台の下から咲神が軽く蹴りを入れると、弓神は渋々と頷いた。反省の弁はないが、壁神を傷つけた自覚はあるのだろう。
「ユミユミもあったかいのがいいって」
「わかった。はい、弓ちゃん」
 弓神が湯気を立てる赤い液体を仕方なく受け取って、口を付けると優しい甘さと少しの酸味が広がった。
「なー咲兄。雨が酷いから壁ちゃんに泊まってってもらったほうがいいよな?」
「そうだね」
「じゃあ泊まってくね。にいにには雨が酷くなったら泊まってくるって言ってあるから大丈夫」
 蔦神が普段はどんなに遅くなっても必ず帰る弓神にも一応聞いてみた。
「ユミユミも泊まってくー?」
「僕は別に……」
いつもなら即座に断る弓神が珍しくも曖昧に首を振った。
「……仕方ないな……」
「わ、ユミユミがお泊りしてくれるって。珍しいー!」
 お詫びのつもりなのか、本当に渋々頷いた弓神に、咲神はぶはっと吹き出したものの、じろりと睨まれて何とか堪える。
「……久しぶりにかまどに火が入ったことだし、ザクロを飲んだら皆でご飯作ろうか」
「わーい。さんせー!」
 壁神が今度こそほっとしたように笑った。
「久しぶりって……ちょっと待て。お前ら普段何食べてるんだ?」
「え? 何か実とか」

 ちなみに、咲神が作るのに失敗したものとは「おにぎりがなる稲」である。
 壁神に「それって普通にごはんを炊いて握ったらいいんじゃない?」と言われ、咲神は自分の本末転倒ぶりに衝撃を受けたとか受けなかったとか。
 どっとはらい。