リクエスト企画にて
『青年メンバーのしっぽりした大人な話』
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 こんこん、と控えめに扉が叩かれた。
 夕餉の支度を調えて、さて食べるかというところだったので、撃神と壁神は顔を見合わせた。
「俺が出よう。壁神は先に食べていろ」
 撃神は箸を置くと立ち上がり、入り口の扉を開けに行く。
 外はすでにとっぷりと日が暮れて、ひんやりと湿った風が室内に吹き込んだ。空気はすでにじっとりと水気を含んで重い。
 梅雨が近いのだ。
 夜が連れてきた客は燃神だった。
「よっ、久しぶり。夜分にすまねェ。ちょっといいか?」
「ああ。構わないが」
 からっと明るい笑顔を浮かべた燃神が、撃神の体越しに室内を覗き込んで、途端に済まなさそうな表情になる。戸口を見ていた壁神と目が合って、キセルを上げてみせた。
「悪ィな、飯時だったのか。こっちは急ぎでもねェし、とっととお暇するから」
「いや、せっかくだ。量は余分にあるから、上がって食べていかないか。今日は梅雨の前なんで屋根を直していたんだが、時間が掛かってしまってな。いつもより飯が遅くなったんだ」
 撃神が説明していると、先に食べるように言われたものの、大人しく待っていた壁神がひょっこりと顔を出した。壁神がしゃらんと髪につけた鈴が鳴る。
「燃のお兄ちゃん?」
「お、壁の嬢ちゃん、元気してるかァ?」
「うん、元気だよ」
 壁神がはにかむように微笑む。
 冬の間、燃神の庵でともに長い時間を過ごすために、人見知りの壁神も燃神にはある程度気安い。
「そりゃよかった。飯の邪魔して悪ィな」
「ううん。今日はどうしたの?」
「ん? ああ、コレを渡しに来たついでに、撃兄と一緒に飲もうかと思ってなァ」
 燃神が片手に提げていた陶器の瓶を示す。撃神に手渡された瓶に壁神が見とれる。
「わあ、きれい」
 潤むように真っ白な瓶は、高さが二尺に足りないほどの大きさで、中身がたっぷりと入る実用的なものだが、実に優美で美しい形をしていた。瓶の首に素っ気なくくくられた荷運び用の麻紐が無粋なほどだ。
「これはなあに?」
「ああ……蘇神が造った酒か。久しぶりだな」
 撃神が納得したように呟くと、壁神が目を丸くして驚いた顔をした。
「これ、お酒なの? 蘇のおじいちゃん、お酒造るの?」
 燃神が口を挟む。
「おお、中身だけじゃなくて、この瓶もな。あのじーちゃんは何でも造るんだぜ。凝り症だからなァ」
 気難しげな風貌の老人と壁神とは直接の接点があまりなく、遠くから見る限り、蘇神は時の流れを忘れたかのごとく物静かに暮らしているように壁神の目には映っていた。力の質を考えると当然とはいえ、蘇神の意外な職人芸――と言っては失礼かもしれない――言い換えると、年の割に能動的な一面を知って壁神は素直に感心した 。
「すごいんだねえ。きれいな瓶……」
 壁神の瞳は吸い込まれるようにまじまじと瓶を見つめ続けていた。
 よっぽど気に入ったらしい。撃神が壁神の頭にぽんと手を置いた。
「中を空けたら瓶は壁神にやろう。花でも生けたらどうだ」
「ホント!?」
「ああ」
「うれしい! じゃあ、せっかくだから似合うようなお花を咲ちゃんに作ってもらってもいい?」
「……構わないが……」
「動くのがいいかな。派手なのがいいかな」
「俺は普通がいいと思うなァ。奇天烈な生け花だと、瓶が目立たなくなるだろ?」
「そうかなあ?」
「絶対そうだって。瓶を楽しむんだろ? まァ、嬢ちゃんにそこまで喜んでもらえたらじーちゃんも喜ぶと思うぜ」
 それまで笑顔で二人を見ていた燃神が、撃神のために口を挟んで話を逸らしてやる。
 いくら壁神に甘い撃神でも、家の中を謎の植物の住み処にしたくはないだろう。寛ぐものも寛げない。しかし、そうなったらなってしまったで撃神は無言で耐え抜くのだろうが。
「そんでな。ま、二十年ほど寝かせてたやつが出来上がったってんで呼ばれて、撃兄のもついでに預かって一本ずつ貰ってきたんだけどなァ、……俺の分は途中で幽姉に奪わ……」
 壁神のきょとんと見上げる瞳と視線がぶつかり、阿鼻叫喚の酔っぱらい地獄絵図を喋りかけた燃神は口をつぐんだ。
「ま、預かりもんだからって一本だけは死守して来たんで、撃兄の分をちっと飲ませてもらおうかと思ったんだが……それはもういいか……」
 何を思いだしたのか、少し遠い目をした燃神は、気を取り直すようにキセルの吸い口を噛む。
「ま、渡すもん渡したしな。そんじゃ、嬢ちゃんの顔も見たし、帰るぜ」
「にいにのご飯、食べに来たんじゃないの?」
「いやァ、それが俺、今は腹がいっぱいで――と」
 そこにぐううぅ、という情けない音が被さった。
 しまった、と顔に出して腹を押さえる燃神に、壁神は目を瞠るとくすくすと笑い出す。
「……すぐに膳を用意する。久しぶりの蘇神の酒をちゃんと飲まないで後悔しないか?」
「はは、そうだな……。そんじゃ遠慮なくお邪魔するかな」
 燃神もバツが悪そうに笑うと、撃神と壁神に続いて室内に上がり込んだ。

*****

「はー、食った食った! ごちそうさん!」
 魚、あげと野菜を煮たの、汁物と麦飯という夕餉を、よほど腹が減っていたのか、燃神は瞬く間に平らげた。茶碗に湯を入れて飲むとすぐに立ち上がって膳の片付けを始める。
「あたしがやるのに」
「俺にもこれくらいはさせてもらわないとな」
「それなら、お手伝いするね」
「お、頼むわ。こっち持って行ってくれるか」
「うん」
 燃神と壁神が片付けている脇で、撃神が手早く酒席を調える。撃神の所作は落ち着いていて静かだ。
 外に出て、井戸の中に沈めていた細い瓶を引き上げると、瓶はひんやりと冷えていた。手ぬぐいで瓶から滴る雫を拭き取り、庵に戻る途中に撃神が空を見上げると、雲が強い風に千切られて、ものすごい早さで流れていく。
 このままだと、夜半には一雨来そうだ。
 客人には泊まっていくことを勧めようと、撃神は思った。
 空気が淀まないように少しだけ空けていた戸と窓の隙間を更に広げて、風の通り道を作ると、生暖かい風が通り抜けて、室内のあちこちに置いた油の皿に浮かんだ火が揺れる。
壁神の髪の先につけた鈴も揺れて、ちりんと鳴った。
 井戸から汲み上げた冷たい水を入れた水差しも用意して、撃神は腰を落ち着けて二人を待つ。
「あ、にいに。それなぁに?」
 片付けを終えた壁神が目ざとく撃神が手に持った瓶を見つけて近寄ってきて、撃神の隣にちょこんと座った。
「ああ……壁神は飲めないだろう。 だから酒の代わりにな」
 膳を取り払った床の上に、乾燥した果物や米菓子を盛りつけた菓子鉢が直接置かれて、周りに取り皿や酒杯が並ぶ。
 向かいに座りながら、燃神が撃神が手に持つ瓶を見て言った。
「あ、それ、懐かしいなァ。俺が子供のころ、撃兄が昔よく作ってくれたやつだろ?」
「ああ」
 撃神が瓶のふたを開けると甘酸っぱい香りが広がる。
「わあ。いい匂いだね」
 瓶を傾け陶器の杯にとろりとした赤い煮汁を少し入れ、冷たい水を上から注ぐ。撃神はそれを手際よく混ぜて撹拌し、興味津々で覗き込んでいる壁神に差し出した。
「ザクロを砂糖で煮出したんだ。飲んでみろ」
「ん……甘ーい! おいしい」
「だろ?」
 自分が作ったわけでもないくせに燃神が胸を張った。
「たくさんあるからどんどん飲めよ」
 ザクロ果汁に夢中の壁神は聞いていない。
「冷たいものをあまり飲むと腹を壊すから、それ一杯だけだ。燃神も昔、苦しんだ覚えがあるだろう」
「そうだっけか? うーん……喉元過ぎるとつい忘れちまってなァ……。たいそう旨かった記憶なら残ってるんだが……」
 ザクロ果汁を一時期作っていたのは燃神がきっかけだったが、本人はすっかり忘れ去っているらしい。
 燃神は気持ちのよい男だが、忘れっぽいのが玉に瑕だ。やれやれと嘆息して、撃神は隣の壁神の頭を撫でた。
「今日は疲れたろう。それを飲み終わったら壁神はもう休め」
「ん」
「撃兄ー、俺はこっちを頂くぜ」
 燃神はだくだくと二つの杯に酒を注ぎ、一つを撃神に渡すともう一つを待ちかねたように呷った。
「っかアァ! うめェ!」
「……燃神はほどほどにな」
 撃神も透明な酒を少し口に含んだ。覚えのあるさわやかな味が喉を灼く強さで体に染みわたる。
「何だろう……お花の匂いがする」
「ああ、花の酒なんだ。嬢ちゃん、こっちも一嘗めしてみるかァ?」
「駄目だ」
「なんでェ。いいじゃねぇか。一口くらい」
 壁神は好奇心をそそられたように撃神の顔をちらりと見た。しかし、一瞬で体を温めるような強い酒だ。撃神は首を振った。
 撃神が駄目だと言ったものは駄目なのだ。
 この件で撃神が折れることがなさそうだと悟った壁神は、早々に諦めて代わりにザクロをもう一杯だけと言って作ってもらう。
「しかし、本当に忘れているのか。その酒で酷い目にあっただろう」
 一気飲みした燃神はすでに顔が赤い。燃神は酒の量はいけるが顔に出る。
「んー……ああ! そういえばそんなことが……確か、じーちゃんの酒を見つけて飲んで……、飲んでどうなったんだっけかなァ……」
 あぶったスルメを噛んで燃神が首をひねる。
「もう酔ったのか?」
「や、本当に記憶が飛んでてよく覚えてねェんだよ」
 苦笑いめいたものを口の端に浮かべた撃神は、ふと、視線を自分の手元に向けて燃神に言った。
「燃神、すまんがちょっと一人で飲んでてくれ」
「静かだと思ったら、嬢ちゃん、寝ちまったのか」
 撃神の腕にもたれかかって、壁神がすやすやと寝息を立てていた。
「今日は朝も早かったし、よく働いたからな。疲れていたんだろう」
 その手の中から零れそうなザクロの器を静かに取り上げて、壁神を横たわらせる。
 部屋の奥に布団を敷き、その手前に衝立を置いて、壁神を起こさないようにそっと運んで寝かせると、壁神が眩しくないように部屋の隅にあった灯りを消す。
「起きないとは思うが、静か目に頼む」
「おお。本当に何だか悪かったなァ」
「別に構わない。壁神も喜んでいたようだったしな。今日は泊まっていくといい。もうすぐ雨が来そうだからな」
「いやいや、そこまで世話にはなれねェよ。俺ァ、別に雨でも濡れないしな」
「……泥が跳ねて嫌だの何だの、言ってなかったか」
「そんなこと言ったかなァ」
 撃神は自分の調子を崩さずに静かに飲む。酒は嫌いではないが過ごすことはない。
 巻き込まれたら負け。それは迷惑な酔っぱらいの近くで育ってしまったものの悲しい習性である。
 しかし、清涼な花の香りの酒はするすると体に入り、撃神と燃神はすでに瓶の半分ほどを空けていた。
「……そういえば、燃神の酒は幽神に取られたんだったか」
「そうなんだよなァ! 撃兄のと二本下げて歩いてたら、ばったり会ってな。飲みたいってんで、俺の分を一緒に飲むかと思って開けたら、俺の瓶一本一気飲みされちまってな」
「ああ……」
 心なしか沈痛な面持ちで撃神が唸った。
「まあ、俺もそんなこったろうとは思ったんで、それは構わないんだがな。そもそも、蘇のじーちゃんが酒蔵開けるってんで、酒もらいに行ったんだけどよ」
 燃神は乾かしたいちじくの実を囓りとる。
「……開けたら蔵の三分の一の瓶が消えてたっつってたんだよな」
「消えた?」
「幽姉が飲んじまってたらしい。いつの間にか蔵の壁に穴が開いてたとかでな。ふーらふーらと入っちゃあ飲み、入っちゃあ飲み」
 撃神が顔を上げて呟いた。
「蔵に穴……」
「断じいだろう、どうせ」
「ああ……」
「蔵の外で止めさせようとしてた風姐とじーちゃんがばったり会ってバレたらしいぜ。んーで、じーちゃん大激怒。幽姉の分の酒は罰としてナシ」
 ナシっつってもあれだけ飲んでりゃあな、と燃神は笑った。
 何も言う気も起こらず、撃神は酒を啜った。脳裏に過去のあれこれが蘇ったのかもしれなかったが、表情からは窺い知れない。
「それで、幽神に燃神の分をやったのか」
「蘇じいが怒るのも無理はねェけどな、酒が主食の幽姉に酒飲むなってのも、かわいそうだろ?」
「まあ、そうだな」
「俺も酒は好きだけど、あそこまではなァ――と、撃兄」
「分かっている」
 撃神は杯を置いて立ち上がると、戸口の引き戸を開けに行く。
 そこには、扉を叩こうと手を挙げた凍神が目を丸くして立っていた。戸口の隙間から吹き込む冷たい風が、凍神の訪れを遠くからも如実に伝える。
「千客万来だな」
「わ、撃さん。……俺が来たってよく分かったね」
「凍神は分かりやすいからな」
「俺も修行が足らないなあ」
 凍神は苦笑した。凍神の力の制御がどうにも不器用なのは昔からである。頑張ったところで、今さら小器用になれるとも思えないが、撃神は賢明に沈黙を守った。
「遅くにごめんね」
「今、燃神も来ているから上がっていくといい」
「それじゃあ……」
 戸口から入りかけて、杯を傾ける燃神に軽く頷いて挨拶し、薄暗い室内に気がつく。凍神が振り返ると、撃神が衝立を指して声を落として言った。
「壁神がもう寝てるから、静かに頼む」
「あ、そうなんだ。何か悪かったな……。これ、持ってきただけなんだけど、置いてくからこのまま帰ろうかな」
 凍神が片手に提げているのは蘇神の酒だった。
「凍兄、飲まないのにじーちゃんとこから酒もらってきたのか?」
「……たまたま近くを通りかかっただけなんだけど……。飲めないなら料理にでも使えってさ」
「もったいねェなあ」
「うん、いい酒なんだろう? 燃さんが撃さんとこに行ったと聞いたから、二人に飲んでもらおうと思ったんだ」
「幽姉にやればよかったのに。会わなかったのか?」
「いや、見かけたけどつい避けてしまって……」
「逃げ切れたのか!」
 凍神にあるまじき機敏な判断と行動は快挙と言ってもいい。燃神は目を丸くして、撃神は撃神なりに驚きを表した。高山植物の成長並のゆっくりさとはいえ、歳月は凍神を成長させているのである。
 しかし、同時にこうも思わせた。今回だけの快挙かもしれない。
「喜ばれるなら誰にやっても構わないんだけどだって幽さんに会ったら絶対飲まされる……!」
 頭を抱え込む凍神に、燃神と撃神は同情の眼差しを向けた。
「う……ん」
 衝立の向こう側で壁神寝返りを打った気配を察し、凍神は口をつぐむ。抑えた声で話していたとはいえ、頭数が増えるとどうしても騒がしくなってしまう。酒盛りの与太話で寝た子を起こすのは忍びない。
「やっぱり俺、帰るよ」
 済まなそうに肩を竦める凍神を撃神は押しとどめた。
「俺たちも外に出るから。……雨はまだ降っていないな?」
 凍神が頷くと、撃神は一人で杯を呷り続ける燃神を促した。
「二人とも、ちょっと手伝ってくれ」
「あ、うん」
「いいけど、俺は夜目が利かねェからなァ」
 ふらりと一歩踏み出した燃神の足がもつれる。
「凍神、明かりを持ってついて来てくれ」
「うん。……でも、もう消えそうなんだけど」
 凍神が持った提灯は今にもかき消えそうだった。
「すぐに済む」
 雲間にちらちらと覗く月明かりで、十分とは言えないが、外は明るい。
 向かった先は外の納戸だった。
 言った通り、凍神の掲げる頼りない明かりの元で、撃神はすぐに目的のものを見つけ、外に出した。
 撃神の背丈より頭一つ分は優に長いそれは、長い間仕舞われていた割に十分に役目を果たしそうだった。
「大きな傘だね」
「野点用だからな」
 広げた傘を木製の台に差し込み、腰掛けを三台、ちょうど傘の下に来るよう、柄の周りに三角形に並べる。
 てきぱきと組み立てる撃神を手伝いながら、凍神が驚く。
「撃さん、お茶なんてやってた?」
「いや、これは風神のものだ」
 そう聞くと、夜目にも麗しい塗りの柄や、傘の模様が目に入る。風流好みの風神のものと言われると得心がいった。
 しかし凍神は引っかかりを覚えた。普段から何かにつけ遊ばれるのだ。
 もし、傷つけでもしたら何と言われるか。
「勝手に使ってもいいのかな?」
 撃神が頷く。
「預けたままで忘れているのか、一向に取りに来なくてな。そろそろ広げて乾かさなければならない頃だし、別にいいだろう。少々濡れたとしても、乾かせば一緒だ。借りたところで別に文句は言うまい」
 淡々と言う撃神に、室内から酒と道具類をふらつく足取りで壊しもせず器用に持ち出した燃神が付け加えた。
「凍兄ィ。俺たちがいたら雨が降ってきたって傘は濡れないだろ?」
「あ、そうか」
「凍兄が雹(ひょう)か霰(あられ)でも降らせない限りはな」
「……それも……そうだね」
 落ち込む凍神の肩を燃神は陽気に叩いた。
「ま、梅雨入り前の月見と洒落込もうぜ! 見えない月を眺めるのもオツなもんだろ?」
「……それって、飲めさえすればいいってことだろう……?」
「凍兄ィ、そいつァ野暮ってモンだぜ」
「凍神。酒の代わりにこっちを」
 凍神は差し出された器を受け取って礼を言うと、甘い香りに目を細めた。
「あ、懐かしい。これ、ザクロだよね」
 燃神が撃神に座るように促して、酒を注ぐ。
「なんだ。凍兄も何か知ってんのか」
「それはまあ一応。だってあんな大騒ぎだろ? 最初からこれがあれば、蘇さんがあんな立派な酒蔵作らなくても済んだんだよね」
 凍神は液体が凍らないように慎重に杯を傾ける。
「うん、おいしい」
「凍神。燃神は全く覚えていないらしいが」
「まさか」
 凍神が信じられない、と目を瞠る。
「だから、何を?」
 頭越しに交わされる話に燃神が眉を顰めた。
「あー、済まない。ごめん、驚いちゃって。燃さんたちが今飲んでる酒をずっと前に蘇さんが作ったときの話だけど、本当に覚えてないんだ?」
「覚えてねェ」
 少し機嫌を損ねて酒を呷る燃神に、そうかー、と気が抜けたようなため息をついて凍神が説明した。
「俺も全部ちゃんとは知らないんだけど」と、予め断りを入れる。
「もともと慈母のために作ってたその酒を、燃さんがイタズラで飲んじゃったらしいんだ。よっぽどおいしかったのか、それまで酒に見向きもしなかった燃さんが一本、二本とこっそり持って行ったもんだから、蘇さんが怒って酒の場所を移したんだよ。でも、ほんっとーに覚えてない? 全然?」
「うーん……全く」
「……それまで全く免疫がなかった酒を飲んではあっちこっちに火をつけて暴れるし。山火事を起こすわ、爆さんの家は燃やすわで手がつけられなかったんだって。しかも飲んだらけろっと忘れてるしね。だから覚えていないのかな? 蘇さんも隠し場所を次々に変えるんだけど、不思議なことになぜか必ず見つけ出すんだよね、これが」
 思い出しながら話す凍神は苦笑いだ。
 それでも燃神は全く思い出せずに首を捻っていた。自分の話をされているとは思えない。
「蘇さんがそれはもう怒って怒って、燃さんの攻撃にも耐えられそうな蔵を建てたんだよ。そしたら燃さんときたら、『じじいからまっこうしょうぶをいどんでくるとはおもしろい』と大喜びして蔵を襲いに行こうとするじゃない。見かねて、撃さんが何か子供を釣れそうな、えーと、いや子供が喜びそうなおいしいもので目を逸らそうって、ザクロを煮詰めたコレを作ってくれたんだ。今度はまんまとこっちに夢中になって」
 半分凍りかけたザクロの器を凍神は持ち上げてみせた。
「蘇神の酒蔵から注意が逸れたのはよかったんだが、燃神は腹を壊すまで毎日飲んでいた。ザクロの季節が終わるまでずっと。でも、それ以降は特に酒癖が悪いということもなかったからな」
 撃神がそうまとめると、凍神が慰めにもならないような言葉を口にした。
「皆はあのときだけで済んでよかったって言ってたんだよ。幽さん第二号の誕生かと戦々恐々だったからね」
 自分の杯を空けた撃神がどんよりした燃神に気がつく。
「……燃神?」
「……全ッ然、覚えがねェ」
 燃神はキセルを握りしめたまま、珍しくも落ち込んでいた。
「昔の話だろう。あまり気にするな」
 軽く片付ける撃神にはすっかり過去の話なのだろう。しかし燃神は初めて聞いたも同然だった。
 昔の話だから気になるのである。全く思い出せないまま自分だけが知らないという状態は気持ちが悪い。しかも今の今まで忘れていては今更挽回のしようもない。
 燃神は黙ったまま手に持った杯を空けようとし、思い直して台の上に戻した。杯の中に残った酒の水面にちらりと覗く月が映る。
 月にまであざ笑われたような気がして、燃神はばったりと台の上に倒れ込んだ。
 ぐしゃぐしゃと髪をかき回して深いため息をつく。
「……あああ、そんだけ聞いたってちィとも思い出せねェのが業腹だぜ……。なァんか、飲む気も失せちまったなァ……」
 思った以上の燃神の落ち込み様に、凍神がおろおろと言葉を探すが、ここで上手く場をまとめられる凍神ではない。
「もう飲まないのなら、甘いものでも飲むか」
「……もらう」
 いつの間にか用意したのか、撃神がザクロの器を差し出した。燃神は一気に飲むと、再び撃神の前に器を突き出す。
「おかわり。この味は覚えてるぜ。やっぱうまいよなァ」
「これだけは覚えているんだな」
 手際よく作られた二杯目をやはり豪快に空け、また燃神は台に倒れ込んだ。
「だってうまいだろ。……爆のおっちゃん家まで燃やして何で忘れてンだろ」
「ば、爆さんももう忘れてると思うけど」
「まあ……爆神も立て替え直前だったから問題ない、とは言っていたがな」
 当時のひきつった爆神の顔を思わず思い浮かべた凍神と撃神の下手な慰めに、燃神は似合わない自嘲の表情を浮かべる。
「俺……明日子守でもしてくる」
 子守は構わないが、いつも慰め役にまわっている燃神の落ち込みに凍神はどうしていいかわからない。
 ふと、撃神が言った。
「燃神、今酔っているだろう」
「酔ってねェよ」
 億劫そうに否定するが、酔っぱらいは皆そう言うのだ。
 燃神は仰向けにごろりと体勢を変え、そのまま動かなくなってしまった。
 短く嘆息した撃神が燃神の手から空の器を取り上げる。
「も、燃さん? あ、れ、寝ちゃった……?」
 傘の下から顔を出し、撃神は頷いた。
「梅雨の天気は移り気だな。もう降りそうにないし、このままでいいか」
「あ、ああ、え、あれ酔っぱらってたの? 確かにいつもと何か違ったけど」
「燃神にこの酒は合わないんじゃないのか」
 撃神は殆ど空いて残り少ない瓶を振る。二本目である。
「いつもはもっと騒いでるだけだからね。はは、起きたらまた全部忘れていたりして」
 凍神は笑ったが、すぐに笑いを引っ込める。ありえない話ではない。
 凍神が凍神にしてはきっぱりと言った。
「悪いけど、残りは撃さん一人で今のうちに飲んでしまってくれる?」
「そうしよう」
 その後は言葉少なに雲間に出たり隠れたりするつれない月を眺めているうちに、いつの間にか凍神も寝てしまった。
 一人取り残された撃神は、二人を起こさないように静かに片付けに取り掛かった。
 酒に飲まれることが殆どない撃神は酒盛りの後始末が昔からの役目である。
 撃神はそれを面倒だと思ったこともない。

 気がついたら、雲が晴れて丸い月が綺麗に顔を出していた。
 朝になったら壁神に言って、花神と弓神にザクロの果汁を持っていかせよう、と撃神は思った。