リクエスト企画にて
『撃神を守るためにがんばる壁神』
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 鬱蒼とした森の真ん中にぽかりと浮かんだような大きな池がある。
 壁神はそのほとりに佇んでいた。

 たった一人で、身につけた鈴をチリとも鳴らさない静かな姿は、いつもはにかんで撃神の後ろに隠れている様とはまるで違う。
 じっと凪いだ水面に向けられた瞳は、何も見ていないようで、一点を見つめているようでもある。

 壁神はぴくり、と肩を揺らし、緊張の糸を切って息を吐いた。
 と、くるりと振り返って声を上げる。
「おじーーちゃあーーーん! いるんでしょう?」

 ぼとり。

 木の上から直下に断神が落ちてきた。大剣が地面にめり込む。
「お、おじいちゃん。大丈夫?」
 返事の代わりに、断神は見上げるほどの木から落ちても大した痛手を受けた様子もなく、無表情でぎこちなく立ち上がる。
 そして零れ落ちそうな大きな目で壁神を見上げると、ぱちくりと瞬きをして、文字通り飛び上がった。
「大丈夫みたいだね。よかった!」
 壁神には断神を発見する感覚器でも備わっているのか、遠くにいても断神の気配を察知するのである。
 嬉しそうに壁神は微笑んだ。
 壁神は断神が大好きである。しかも、かわいくて優しくて面白いおじいちゃんだと思っている。
 人外魔境も形無しである。

「やややや、きききき奇遇なのののであるるる」
「そんなところで何してるの?」
 壁神の耳の横の鈴がちりんと涼しい音を立てた。
 その耳に甘い音で断神はさらに竦み上がる。ひゅう、とあるまじき悲鳴が喉から漏れる。
「なななな何とは」
 問いを問いで返し、断神は直立不動で立ちすくんだ。
 ネズミのくせに、借りてきた猫のような有様である。蘇神あたりが見れば落涙するやもしれない。
 油が足りないカラクリ細工じみた、ギーと音が出そうに珍妙な動きの断神を不自然に思う様子もなく、壁神はすっかりかわいいものを愛でる目線である。
「ねえ、おじいちゃん今ヒマ?」
 お願い事が断られるとは端から思っていない孫の顔で壁神は聞いた。
 断神はギギギギと首を縦に振る。
「暇である」
 じじいは素直である。
「それならちょっと手伝ってくれないかなあ」
 否の返事は断神にはない。
「う、うむむむ。む、何をするのであるかかかか」
「魚釣り!」
 断神のいい返事に壁神はにっこり笑い、そして少し悲しそうにうつむく。
「あのねぇ……にいにが風邪を引いたみたいなの。あたしに出来ることなら何でもしてあげるんだけど、あたしが一人でも出来ることってあんまりないの」
 断神は小さな口をぱくりと開けたが言葉は出ない。
 なぜなら断神が誰かに慰めの言葉を発したことは一度もないからだ。
 本能の危機にさらされていようと、出来ないことは出来ない。
「一生懸命考えたんだけど、にいにの元気が出るようなお魚を取っていこうと思って」
「む、魚」
「うん。それでね。これを持ってて」
「むむむ、うむ」
「あ、ちゃんとおじいちゃんにも分けてあげるからね!」

 断神が渡されたものは網だった。

*****

「んー、ここら辺かな……」
 断神を連れて、深い淵になっているあたりで壁神は足を止めた。
 岸から少し離れたところに断神を立たせる。
「おじいちゃんはここに立ってて」
 言うまでもなく、すでに断神は直立不動である。
「魚がそっちに行くから、網で捕まえてね! 捕まえたのはそこに入れてくれる?」
 断神の隣に広げた麻袋を指す。
 何も聞かず、ぎこちなくうなずく断神がすでに目に入っていない様子で、壁神は淵を中腰で覗き込んだ。
 髪につけた鈴を外して手首にくくり付け、凪いだ水面に差し込む。
 そして水中でぐるぐると回し始めた。
 静かな後ろ姿はぎりぎりと引き絞った弓のように細い手足の隅々にまで力が行き渡り、獲物にまっすぐに飛びかかる寸前の捕食者そのものだった。
 断神は何か言われる前にしゃっと網を構える。

 ――そして狩りは始まった。

 魚は遠巻きにするように壁神の手に寄ってきた。
 鈴の奏でる波形は魚にとって無視できない何かなのだ。
 興味を惹かれてふらりと近寄って、離れようとしたときには壁神の手からは逃げられない。
 とんぼの目の前でぐるぐると指を回し、捕まえる要領である。
 壁神の漁に餌はいらない。
 水音も立てない静かな漁だが、壁神は次から次へと魚を水から掴み出して後ろに放ち、水から魚が飛び上がった魚も手のひらで器用にはじき飛ばす。
 片手で鈴をぐるぐると回して水流を作り、もう片方の手が逃げる魚の尾を掴んで空中へ放る。
 それらを断神は網で難なく受け止めた。
 いつもは壁神一人で魚を捕まえては袋に入れ、捕まえては袋に入れ、とやるのだが今回は断神がいるので能率がものすごく良い。
 尾をびちびちと動かして無軌道な動きを見せる魚も、断神にとっては大した敵ではない。
 魚を捕らえて麻袋に入れると、断神は素直にじっと待った。
 たまにびちびちと麻袋で跳ねる魚を見つめたが、もしかすると魚のように狩られる自分、そして狩られてしまった魚の悲哀を想像したのだろうか。
 しかし断神の視線に同情的な色はない。というよりも真っ白な小さな顔には何の表情も浮かんでいなかった。
「うまそうである」
 ぽつりと呟いた断神は何のことはない、単に魚の味が気になっただけのようだ。
 麻袋はみるみるいっぱいになった。
 魚が少なくなると壁神は場所を変えて、鈴を回して魚をおびき寄せる。
  それを何度か繰り返したときだった。

「あっ、大きなウナギ!」
 水面に銀色のぬらりとした鱗が閃いた。悠々とした動きは大物に違いない。
 壁神の手の届かないあたりを不敵に泳ぎ続けている。
「じゃない……タチウオだわ。おじいちゃん!」
 突然振り返った壁神に、麻袋の魚を見つめていた断神は陸揚げされた魚よろしくびくりと跳ね上がった。
「むむむ」
 そして何事もなかったようにちゃきりと網を正眼に構える。
「あれ捕まえるね。きっといいお刺身が取れるわ!」

 頷いた断神を確認して、壁神は水面に身を投げ出すように生えた木に駆け上がった。
 先に行くにつれ細くなってたわむ枝の反動を利用して、壁神は宙に舞った。
 真下には魚が背を翻らせ、沈んでいこうとしている。
「逃がさないんだから!」
 壁神は水面間際で一回転し、タチウオに向けて渾身の蹴りを見舞った。
 そのまま水しぶきをあげて池に落ちる。
 気を失い腹を見せて浮きかけたタチウオは長い尾で水面を叩いて、壁神が水から顔を出す前に息を吹き返し、身を捩って逃げを打った。
 断神が網を構えて待つ前で、壁神は水から顔だけ出すと息を吸ってまた潜る。
 派手な水飛沫が至るところで上がり、死闘のようなものが水中で繰り広げられているようである。
 断神は池をしばらく見つめた。
 そして網をそろそろと地面に下ろし、投げ出していた大剣を拾って構え、壁神が登った木の根元を無造作になぎ払う。

 ドォン、と水に向かって木が倒れ、けたたましい水音と水飛沫が上がる。鳥の群れが一斉に飛び立って騒々しい羽音も混じって、辺り一面騒々しい。

 断神が倒した木の上にいつの間にか登っていた壁神はびしょ濡れの我が身に構わず、タチウオに急いで近寄る。
 木の一撃を食らって今度こそ失神したタチウオは、それでも尾をばたつかせてのたうっていた。
 しばらくするとまたすぐに動けるようになるだろう。
 壁神は口を引き結ぶと迷わず水中に手を突っ込み、暴れるタチウオに構わず滑る胴体に手を回して抱え上げた。すぐにでも滑り落ちそうな魚に壁神は少しだけ思案する。
 木を伝って運んでいってもこのぬるぬるじゃ途中で落っことしちゃう。
 どうしよう。あ、おじいちゃんの網!

「おじいちゃーーーーん! 捕まえてー!」

 腕からすっぽ抜けそうになる巨大な魚を壁神は断神に向かって投げた。
「む」
 足りない飛距離は断神がタチウオに向かって突っ込み、そのまま突風のように剣を振るい――そのまま珍しく口をぽかんと開けた。
 手に持っていたのは網ではなく、剣であったのを断神はすっかり失念していたようだ。
 断神は言われた以上のことをした。受け止めるのではなく、タチウオに止めを刺したのである。
 ぱちくりと瞬きをすると、手に持つ大剣を投げて、網を拾って飛び上がり、空中に散らばったタチウオを流れるように集めると危なげなく着地した。

 壁神の身の丈二倍はあろうかというタチウオは、切り身になっていた。

「あたし泳ぐのちょっと苦手なの。助かったよー、ありがとう」
 この上ない感謝の笑顔で戻ってきた壁神を前に、断神は小さな両手で掴んだ網をぶるぶると振るわせた。せっかく落とさずに済んだ切り身が網から零れ落ちそうである。
 網に入ったタチウオの切り口はそれはそれは見事なものだ。
 壁神の瞳がびっくりしてまん丸になる。まじまじと断神と切り身を見比べて、首を傾げた。
「なあんだ……、お刺身じゃなくてお煮付けが食べたかったら、そう言ってくれればよかったのに」
「に、ににに煮魚はううううまいのであるるるる」
 ぽたり、ぽたりと壁神の髪の先から水が滴り、鈴が少しこもった響きでしゃらしゃらと音を奏でる。暑いから、それでもすぐに乾くだろう。
「あ、そうだよね! にいに、風邪なのにお刺身はないよね。おじいちゃん、気を使って捌いてくれてありがとう」
 断神はがくがくとうなずいた。
「あ、ウナギもたくさん取れたね。これくらいで十分かな? おじいちゃんはもっと取った方がいいと思う?」
 断神は久々に首を横にぶんぶんと振った。すでに壁神に持てないほどの量の魚が袋に詰まっている。
「そう?」
 壁神は鈴を髪につけ直した。
 それからタチウオの切り身をざらざらと半分に分けて、手際よく麻袋の口を縛る。
「おじいちゃん、ありがとうね! これ、おじいちゃんの分だよ」
 大きな袋と網をよろけながら担ぐと、これまた大きな袋にみちみちと詰まった魚を断神に渡し、壁神は帰って行った。

 放心したのかそもそも何も考えていないのか、茫洋と壁神の後ろ姿を見送った断神は、道で最初に出会った燃神に、
「煮るのである」
と魚を煮させた。
 そして魚の塩煮を大量に腹に収めると、淡々と去っていった。
 何故か突然、釣りたての魚のお相伴にあずかった燃神は――といっても「じーちゃん、魚のはらわたは抜くのかよ」「抜くのである」「面倒臭ェなァ」などと和やかに調理したのは燃神だが――大量の魚の出所を特に謎に思いもしなかった。
 断神自体が常に謎だからである。断神は理解を必要とする存在ではない。
「魚、うまかったなァ」
 キセルをぷかりと吹かして燃神も去った。

*****

 撃神は確かに風邪気味ではあったが、たいしたことはなく、一晩寝れば治る程度のものであった。
 家で生姜湯でも飲んで安静にするつもりでいた撃神は、勢いよく帰ってきた壁神が差し出した、鰻丼とタチウオの煮付けを黙って食べた。
 無理に栄養を取ったのがよかったのか、風邪は無事に完治した。

 なぜだか、壁神の天性の漁師としての腕前はあまり知られていない。
 しかし、あるとき偶然に漁を目撃した花神兄弟の下の二人が進呈した、壁神本人も知らない二つ名が「水際の勝負師」であることには触れておこう。
 ちなみに、他の候補が「波打ち際の覇者」であったこともつけ加えておく。