リクエスト企画にて
『撃神と壁神と桜餅』
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 それは桜が咲く少し前のお話。

 しゃらしゃらと聞き慣れた鈴の音を耳にして、撃神はふと目を開けた。
 それとほぼ同時に、重い引き戸ががらりと引かれ、暗い室内に陽が差し込む。
「にいに、いるー?」
「……壁神」
 撃神は身を起こして、頭を振った。
「寝てたの?」
 開けっ放しの扉から風が吹き込んで掛布の端が捲れ上がった。
 外は撃神が思ったよりもまだ明るかった。いつもなら壁神は外で遊んでいる時間のはずだ。
「ああ……早かったな」
「にいにはどこか具合悪いの?」
 心配そうな壁神が首を傾げる。動く度に振るような鈴の音が短い音楽を奏でた。撃神はほんの少し目を細める。
「いいや。少し眠かっただけだ」
「にいにはよく寝てるもんね。起きられる?」
 頷くと、撃神は手早く寝具を片付けた。身の回りの整頓が苦にならない質なので、庵はいつも整然としている。
「少し早いが、飯にするか?」
 声を掛けると、鈴を鳴らして壁神はくすくすと笑った。
「にいに、寝ぼけてるでしょ。まだおやつ時だから晩ご飯には早いと思うの」
「……そうか」
 撃神はもう一度大きく頭を振った。陽はまだ高い。言われた通り少し寝惚けていたのかもしれない。撃神にしては珍しいことだった。
「へんなの、にいに」
 笑い続ける壁神の鈴がちりんちりん、りんりん、と涼しく響く。撃神はふとまた眠気に連れて行かれそうになる。
「あ、にいに!また寝ちゃだめだったら!……これ見てみて!」
 このままではにいにが本格的に寝てしまう、と焦った壁神は上がりかまちに放り出した重箱を取ってくると、撃神の目の前で蓋を開けてみせた。

 ふんわりと広がる、色さえついていそうな甘い香り。
 中の餡を透かした桜色の餅米を桜の葉でくるんだものが、みっしりと詰まっていた。
 薄い上品な桜色が網膜を通過した瞬間、撃神の頭が覚醒した。
「これは……」
 ――桜色がみっしり過ぎて一体化している。
「桜餅、か?」
「うん!濡のお姉さんとこで、咲ちゃんたちと一緒に作ったの。にいに、桜餅好きでしょう?」
 一瞬詰まった撃神を壁神は眠いせいだと思ったようだった。
「嫌いではないが……、壁神はもう食ったのか?」
「うん。おなかいっぱい食べたよ。それは全部、にいにの分」
 撃神はため息を飲み込んだ。
「そうか……ありがとう……」
 お土産にしてもさすがに多いんじゃないか――と思ったとしても壁神の期待に満ちた瞳を前にして、撃神が口に出すことは出来なかった。
「いっぱい食べてね!」
 渡された重箱を無言で見下ろした撃神は、主の尊顔を脳裏に浮かべた。
「……桜餅と言えば、慈母の分はちゃんと取ってあるのか?」
「うん。もともと慈母にお作りしてたんだもん。皆で持って行ったよ。でも咲ちゃんたちが、餅が硬くなる前ににいににも食べさせてあげた方がいいんじゃない、って言ってくれたからあたしだけ別行動なの」
 走って帰って来ちゃった! と壁神は笑って立ち上がった。
「お茶入れてくるね」
「壁神、待て」
「え、なぁに?」
 振り返った壁神の目の前に、桜餅が突きつけられる。
 壁神が目をぱちくりさせて、それでも素直に口を開けてもぐもぐと食べる。
 ごくん、と飲み込んで壁神が頬をふくらませた。
「にいにの、あたしが食べちゃった」
「まだ、食えるんだろう?」
「うん……、食べられるけど、でも」
「一人で食うより、一緒の方がきっとおいしいだろう」
 片手で壁神の頭をくしゃくしゃと撫でると、撃神は外を指した。
「せっかくだから外で食うか?」
「うん!」
「俺が茶を入れよう」
「ホントに? じゃあ、湯飲み用意するね」
 足音を立てずに、ぱたぱた動く壁神の後ろ髪を眺めると、撃神は湯の用意を始めた。

 本当は甘い物が得意でないけれども。
 壁神が作った桜餅なら全部食べてしまう自分を撃神は知っていた。
 それがたとえ最初の一口を過ぎると全てが砂糖の味になってしまうとしても。
 食べ物は食べ物である。慈母の恵みに感謝していただかなくてはならない。
「濃い茶でも入れるか……」
 少し遠い目をして撃神は呟いた。
 多少の無理は苦にせず飲み込む。
 彼は泣かせるほどの気遣いの男であった。
 壁神がにいにの甘い物嫌いを知る機会はまだない。