暦の上では春になり、日差しはぽかぽか暖かく、春の息吹がそこかしこに感じられるとはいえ、時折吹き付ける風はまだまだ身を切るように冷たかった。

「弓ちゃあ〜ん!」
と、間延びした声に弓神が反応したのは、そこに花神の三兄弟と壁神に加えて、アマテラスがいたからだ。
「わう!」
 アマテラスが弓神に向かってパタパタと尻尾を振る。殊更何気ない顔で弓神は言った。
「何だよ、雁首揃えて。それに慈母まで……」
 蓮神と蔦神が顔を見合わせてヘヘ、と笑った。弓神は反射的に身構えた。花神たちの笑顔には碌な思い出がない。しかし返った答えは、一応、弓神の常識の範疇に収まるものだった。

「つくしとふきのとうをとりに行くんだよ」
「僕たち兄弟だけで行くつもりだったんだけど……」
「あたしが慈母と一緒にいたときに咲ちゃんたちと会って、それで一緒に行くことにしたの」
 壁神がにこっと微笑んで、蔦神の言葉を引き継いだ。身につけた鈴がリンと澄んだ音を立てる。
「弓ちゃんは、今から何か用事があるの?」
「いや、別に……」
「じゃあ、一緒に行かない?」
 一瞬返答に窮した弓神に、蓮神と蔦神が畳み掛ける。誘いに対して、素直にはいと答える弓神でないことを、この兄弟が一番よく知っている。案の定、弓神は嫌な顔をした。
「何で僕まで……」
「慈母も一緒に行ってくれるって〜」
「そうそう。んでもって、いっぱいとれたら撃兄がいろいろ作ってくれるって!」
「つくしの卵とじとかー、ふきのとうのてんぷらとかー、……でもふきのとう味噌は苦いから僕ちょっと苦手〜」
 弓神の返答も聞かずに、勝手に食べたいものと苦手なものを並べ立てて、蔦神がよだれを垂らしそうな顔で笑うと、アマテラスが千切れそうな勢いで尻尾を振った。食欲をそそられたらしい。今にも駆け出して行きそうである。
 アマテラスと他の子供たちのきらきら光る目で見つめられ、弓神は建前上、しぶしぶと言った。
「ちっ、しょうがないな」
「やったあ!」
「ワン!」

 弓神はやれやれとばかりにため息をついて、――――胡乱な顔で下を見た。全く発言のなかった咲神が、アマテラスの隣にしゃがみこんで震えている。――顔色が真っ青だ。

「……咲?」
「やあ、ユミユミ」
 咲神はひょいと手を上げて挨拶をした。顔は何でもないように笑っているが、指先ががくがくと震えている。そもそも、それで寒くないふりをしているつもりだろうか。蓮神と蔦神も腕を擦ったり時折身震いしていたりするが、咲神の尋常ではない寒がり方に、弓神は一応言った。精一杯の友情である。
「……なんか着れば?」
「いやいや。ん? ……それはいい考えだよユミユミ。いやしかしやっぱりねえ、うん、慈母、ちょっと失礼しますね」
「ワウ?」
 アマテラスがきょとんと目を瞬いた。何でもない顔をしたままで、咲神がアマテラスの首にいそいそと抱きつく。アマテラスのふかふかの毛皮に埋もれて、咲神が全身から脱力したように息を吐いた。
「……は〜〜、ぬく〜……」
 我慢できないくらい寒かったらしいが、誰も慈母を着ろとは言っていない。白い毛皮に顔を擦り付ける咲神を見て、弓神が棒立ちになる。
「なっ……」
「いいなあ兄ちゃん、俺も〜」
「あ、僕も」
「慈母がつぶれちゃうよー?」
「な、な……」
「ぬくーい」
 ぱくぱくと言葉にならない弓神を尻目に、蓮神と蔦神がアマテラスにしがみついた。アマテラスには子供三人の重みなど何ほどもなく、くわふ、とのんびり欠伸をする。
 ぬくぬくと息をつく兄弟たちを乗せたまま、アマテラスが壁神と弓神を見て、ひょいと首を傾げた。
「え、あたしも?」
 壁神は少し驚いたが、素直に蔦神が空けた白い背中にふかりと寄りかかった。はずむように鈴がリンと鳴る。
「……えへへ、あったか〜い」
「な……っ」
「咲兄〜寒いよー」
「じゃ、こっち寄りなよ」
「きゃうん!」
「あっ、蓮ちゃん! 慈母の尻尾踏んでる!」
「じ、慈母ごめん!」
 大騒ぎのおしくらまんじゅうをよそに、弓神は固められたように突っ立っていた。それも当然である。ここでいそいそと参加できたら、弓神ではない。
「ユミユミも立ってないで、早くくっつけばー?」
 そして、咲神がごそごそと空けた場所は、何故か当然のようにアマテラスの真正面だった。
 しがみつけ、とばかりに胸を張るアマテラスに、弓神は赤くなって、次に青くなった。
「な、な、何言って……ッ」
 くふん、と鼻を鳴らして急かされ、弓神はますます身動きが出来ない。衆人環視で素直にアマテラスに甘えられる質ならば、最初から気苦労はない。

 早く早くと急かされ、やっとのことで、ぎぎぎぎ、と音が出そうにぎこちなく弓神が白い毛皮に手を伸ばした、そのとき。

「わう!」

「間に合ったか」
「にいに!」
「撃兄!」
 壁神が、突然現れた撃神に声を上げた。アマテラスの注意が逸れて、弓神の肩からガクリと力が抜ける。
「……なんなんだよ。もう……」
「どうした? ……少し寒いかと思ってな」
 最初は弓神、次は花神たちに向けられた言葉だった。弓神はそっぽを向いた。
「あ、襟巻き……」
 撃神の手にあったのは、真冬によくお世話になった襟巻きだった。肌寒いくらいの陽気には持ってこいだ。兄弟たちは襟巻きをぐるぐる首に巻きつける。蓮神と蔦神も、咲神よりはほんの少し強いというだけで、寒さに弱いことには変わりはない。
「撃兄〜〜! ありがとううう!!」
「暖かいようう!」
「それとこれも持って行け」
 淡々と渡されたのは、暖かい芋だの肉まんだのが入った風呂敷包みだった。至れり尽くせりの心づくしである。しかし、やさぐれた弓神にはそんなことはどうでもいい。

 すると突然、弓神の視界が一回転した。
「な……ん!」
 アマテラスが、弓神の首根っこをくわえて、背中に放り投げるとそのまま走り出したのだ。
 弓神が慌ててアマテラスの首にしがみつく。ふさふさの毛皮は暖かかったが、弓神にそれを噛みしめる余裕はなかった。
 みるみる赤くなる顔を隠すために俯くと、白い毛皮に埋もれる形になり、弓神は首まで真っ赤になった。
「ひ、一人で歩けるってばッ!」
 アマテラスがいやだとばかりにと鼻を鳴らした。ワンと短く一吠えすると、力強く土を蹴り、速度を上げる。

「……早く降ろしてよもう……」
 そう言いながら、弓神はこっそりアマテラスの毛皮を握りしめた。

「おー、さっすが慈母、早いね!」
 光跡を残して瞬く間に小さくなるアマテラスと弓神に、ぴゅうと口笛を吹くと、蓮神と蔦神も走り出した。撃神に向かって風呂敷包みをかざす。
「撃兄、僕たちも行くねー」
「おべんとありがと〜!」
 笑顔を残して駆け出す二人に軽く手を振ると、撃神が壁神の頭をくしゃりと撫でて促した。
「余り遅くならないようにな」
「うん。咲ちゃん、あたしたちも行こう!」
 壁神がわくわくと振り返ると、咲神はぐるりと辺りを見回して、のんびりと言った。
「まあ、僕たちくらいゆっくり歩いて行けばいいんじゃない? 春だし」
 撃神が壁神の首にも襟巻きをくるくると巻いた。口の端に幽かに笑みを浮かべて、もう一度壁神の頭を撫でる。弓神の分の襟巻きを咲神に預けて言った。
「楽しんでこい。せっかくだからな」
「そっか……そうだよね! 春だもんね」
 
「気をつけて行けよ」
「はーい」
 声を揃えて元気に返事をすると、咲神と壁神は、仲良く早春の野原に向かって歩き出した。

*****

おまけ

「そういえば慈母と弓ちゃんは春を味わう余裕もなく行っちゃったねえ……」
「ユミユミは慈母がいればいつでも春だからいいんだよ」
 咲神が肩をすくめてみせた。