青天の霹靂と言う。
 撃神が風邪を引いた。

 壁神は井戸から冷たい水を汲んで布を浸した。そうっと物音を立てないように引き戸を開けると撃神がちょうど身を起こしたところだった。
「あっ、にいに!  起きちゃだめよ!」
 壁神は桶を下に置くと、苦しそうに咳き込む撃神の背中を慌ててさすった。
「心配かけて済まない……」
 咳の合間に謝る撃神に、壁神は眉を曇らせる。手の下にある背中が熱い。撃神の頬までうっすら赤い。異常事態だった。
「にいに、それは言わない約束でしょ」
「済まない……」
 重ねて謝る撃神の背中を壁神はぺちんと音を立てて叩く。
「もうっ。でも何か食べたほうがいいよね。おかゆ食べられるかな……?」
「ケホ……いや、水だけくれるか」
「うん」
 壁神は素焼きの湯呑みに白湯を注いで手渡した。撃神が眉をしかめる。どうやら水が喉を通るだけでも相当な痛みを感じるらしい。
 撃神は白湯を一口だけ飲むと湯呑みを置いた。
「このままだとお前にも移る。俺は寝ておけば治るし、誰かのところへしばらく置かせてもらえ」
 壁神が顔を上げた。大きな目がみるみる潤む。壁神はぐっと堪えて瞬きで涙を散らした。
 髪に付けた鈴がりんと音を立てる。
「あたしっ、行かないもん!」
「駄目だ」
「にいにと一緒にいる!」
「俺が治るまでの話だから、そう長い間でもな……ッく」
 撃神は俯くと激しく咳込んだ。
 壁神は撃神に白湯をもう一口飲ませると「もうしゃべっちゃだめ!」と言い渡した。
 壁神は撃神を横たわらせて掛布を首までかけた。額に冷たい水で絞った布を載せると、涙目で念押しする。
「にいには、ちゃんと寝てなきゃだめ」
 床の中で撃神が億劫そうに頷いた。
「治ったら迎えに行く。だから……」
 壁神はプルプルと頭を振った。予備の掛布を出してきて問答無用で頭からかぶせる。
「いいから、寝ててって!」
 撃神は布をかき分けて顔だけ出し、諦めたように目を瞑った。額当てを外して髪を下ろし、鋭い目を閉じた撃神はいつもと比べて幼く見えた。
 壁神は頼りなげな兄を前に拳を握りしめた。

(あたしがしっかりしなきゃ)
 手早く枕元を片付けて、音を立てずに立ち上がる。
 撃神の呼吸が深く規則的なものになると、少しの物音でも反応する兄を起こさないように、壁神は外に出た。

*****

「あ……」

 壁神が戸を開けたらそこに笑顔の風神が立っていた。
 風神は相変わらず無駄に華やかな空気をまき散らしながらにっこりと微笑んだ。
「壁ちゃん元気ィ?  撃ちゃんはいるかしもがッッ」
 脳天気な挨拶を両手で口を塞いで止めると、壁神は後ろを振り返った。薄暗い室内からは物音一つ聞こえない。壁神が肩で息をつくと、口を塞がれたままの風神が切れ長の目をまん丸にした。
「しーっ」
 風神は壁神の必死な顔と半開きの戸を見比べて、家の中の何かが原因で声を出してはならないらしいと察した。それよりもぐいぐいと両手で口と、ついでに鼻まで塞ぐ壁神の力が案外強くて本気で苦しい。窒息する前に風神は何度もこくこくと頷いた。
 壁神がぱっと赤面して手を外し、慌てて半開きの戸を閉める。
 その間に風神はぷはーと息を吐いた。
「何々?  どうしたの?」
 小声で訊ねると壁神は戸に手を当てたまま、途端にへしょんと耳を倒し、瞳一杯に涙を溜めた顔を風神に向けた。
「…………にいにが風邪ひいて寝てるの……」
 風神が納得した顔で頷いた。
 撃神が小さい頃に、何度も寝込んでいた記憶が蘇る。
「あ〜〜なるほどね……どんな症状なの?」
「あ、あの……ね、熱が高くて」
「熱だけ?」
「う、うん。あと咳してて」
「うーん、喉は?」
「い、痛そうにしてる……あんまり飲みこめないみたい……」
 壁神は我に返ると、真っ赤な顔に手を当てたままうつむき加減で風神の質問に答えた。
 風神は苦笑した。
 壁神は一人の時間が長すぎたせいか、同じ年頃の子供たちを除いては人見知りが激しい。避けられているわけではないけれども、花神たちのように無条件で懐いてくれるわけでもない。
むしろ撃神が風神から自然と距離を取らせている節すらあって、直接話した記憶があまりなかった。
(やーだわっ。私が壁ちゃんを取って食うとでもいうのかしらねっ、撃ちゃんたらしっつれーねッ)
 壁神を怖がらせないようにと、一際華やかににっこりと笑いかけ、風神は言った。
「それで、壁ちゃんは今からどこに行くのかしら?」
 壁神はぴくんと顔を上げた。
「……さ、咲ちゃんとこに……」
 風神は首を傾げた。
「今から遊びに行くの?」
「ち、違うもん!  咲ちゃんに、にいにの風邪が治る何かを作ってもらおうと思ったんだもん」
 今度は風神が絶句した。
 桜花三兄弟の長兄が風邪を治す何かを作り出す可能性を秘めているのは否定しないが、そうでないものを作る可能性も同じくらい高い。おそらく単なる風邪を勝手に命の危機にまで高めるのはいかがなものかと風神は思った。しかし、咲神の趣味を極めて高く評価しているらしき壁神の前で否定するわけにもいかない。
「そ、それはちょっと……そ、そーだったッ!」
 風神は慌てて足元から籠を持ち上げた。
「今日はこれを持ってきたのよ」
 壁神が目を見開いた。
「りんご……?」
「そうそう、北はもう収穫時なのよ〜風邪にいいのよ。撃ちゃんに食べさせてあげてよ」
 風神は丸くてつやつやと赤い林檎を一つ籠から取り出して壁神に渡す。壁神が林檎と風神の顔を見比べる。
「……風邪にいいの?」
「そうよお。採れたてだもの、咲ちゃんの作ったものに負けないわよ。撃ちゃんも昔は何度も風邪を引いていたけどすぐ治ったし。大丈夫よ!」
「ほんとに?」
「嘘じゃないわよ」
「じゃあそのときはどうやって治したの……!?」
 安心させようと言葉を継いだものの、必死な壁神を前に風神は失言を悟った。

(えーっとォ……)
 風神は確かに撃神の風邪の治し方を知っていた。
 ただ、危険を伴うため、それをそのまま壁神に教えるわけにはいかなかった。
 昔の思い出が脳裏をよぎる。
 撃神は昔はすぐ寝込む病弱な子だった。年長の風神と幽神がよく看病したものだ。
 風神は自分なりに一生懸命に面倒をみた自負はある。
(ちょっと目を離した隙に、幽ちゃんが風邪で動けない撃ちゃんにお酒を大量に飲ませたら、熱が下がったなんて)
 解熱は大量発汗のためであろう。
(しかもたまご酒と主張して、幽ちゃんがお酒と交互に大量の生卵を飲ませたなんて)
 胃腸にくる風邪引きに卵は鬼門である。
 撃神がよく無事だったものだ。
 それが全てではないにせよ、撃神が異常に健康に育った原因が(概ね)自分たちにある
なんて。
 言えない。目を輝かせている壁神に言える訳がない。

 風神は一点の曇りもない笑顔を浮かべた。
 遠い記憶は追い払う。今更持ち出しても、誰にとってもいい記憶ではない。
「やっぱり特効薬は愛情よね」
「あ……いじょう?」
「そうよ。撃ちゃんもいつも壁ちゃんを守らなきゃって思ってるわけじゃない?  壁ちゃんが大きくなって、ちょっと気が抜けたんじゃないのかしら?  ちょっと疲れが溜まっているだけだから、暖かくして寝ていれば大丈夫よ」
「……そ……うなの?」
「もちろんよォ!  壁ちゃんがついてれば撃ちゃんもおちおち寝てらんないわ。
すぐ治るわよう」
 風神はぱちんと片目を瞑って見せた。
「喉が痛いなら、林檎はすって食べさせてあげてね」
 壁神は素直にこくりと頷いて、林檎の籠を受け取った。
「じゃあ私は帰るわね」
 風神がわしゃわしゃと頭を撫でると、壁神はためらいがちに微笑んだ。
「あの……ありがとう」
「どういたしまして。じゃーね」
 風神は音を立てずにふわりと飛び上がると、壁神に手を振った。

 撃神の家から十分に離れて、加速をかける。風神は固く決心していた。
(今回は絶対に幽ちゃんを止めてみせるわ!  撃ちゃんお大事に!)
 風神は五色の裾を翻すと、幽神の元へと急いだ。

*****

 撃神が目を覚ましたのは、外が暗くなった頃だった。
 起き上がろうとしたが、ずっしりと掛布がかさ張って身動きがとれない。
 上からほっとしたような壁神の声が聞こえる。
「あ、にいに。起きた?」
「……これは……?」
「寒くないように布団をたくさんかけたの」
「ああ……ありがとう」
 一枚を残して撃神の横に布団を積み上げて、壁神は湯呑みを持ってきた。
 撃神は僅かに顔をしかめて湯冷ましを飲み干す。
 壁神が心配そうに撃神の額に自分の額をつける。まだかなり熱いが、風神が来る前よりは熱が下がっているのに安心する。
「大丈夫?」
「何とかな」
「にいにが寝てるときに、りんごもらったの。食べれる?」
 撃神が頷く。
「咲からか?」
「ううん。風のお姐さんから」
 そう言って、壁神はぱたぱたと大鍋を運んできた。
「喉が痛いときはりんごをすって食べるといいんだって!」
「……風神?」
 撃神は一瞬動きを止めた。
「うん。にいににお大事にだって。はい、あーんして」
 目の前に突き出されたれんげを撃神が見つめていると、壁神が不思議そうに首を傾げた。
「……待て。鍋の中は全部林檎か?」
「そうよ。風邪にいいんだって。たくさん食べたら早く良くなるかなって」
 大鍋一杯の林檎を抱えて壁神は目をキラキラを輝かせた。

 撃神は黙って口を開けた。