※このお話は前回の「燃凍壁花弓」小説の裏話です。

「何が?」
 弓神の声音は身に沁みる隙間風と同じくらい冷たかった。

「舌の根もかわかないうちにというやつだよ。ねんぐのおさめどきって言うの?」
 開口一番、何の悪事の話だ。しかもいきなり発覚か。
 したり顔の癖に真っ青な顔で頷く蓮神に、弓神は眉根を寄せた。
 何が言いたいのかさっぱりわからない。
 横目で蔦神に事情の説明を求めると、ガタガタと震えていた蔦神が慌てて口を挟んだ。
「え、えーと、歯の根が、かみあ、ってないって、こと?」
 足を踏み鳴らして蓮神が叫んだ。
「そう、要するにとにかく寒いの!」
 涙目で口々に詰め寄られて弓神は困り果てた。頼まれて嫌々立ち寄って回れ右してそのまま扉から出て行きたい気持ちでいっぱいだが、打ちひしがれた蓮神と蔦神を置いて行くのは後味が悪い。結局、弓神の口から出たのはこんな台詞だった。
「…んで、僕にどうしろって言うんだよ…?」
「燃兄のとこに避難しにいかないと僕たち凍死しちゃうの!」
「山に行くの手伝って!」
「なんで、僕が…。咲はどうしたのさ」
「だってぇ…」
 蔦神がふにゃりと泣き声を出す。
「咲兄が一番弱ってるんだもん…」

****************

 山から吹き降ろす風が肌に冷たくなったと感じたら冬はすぐそこだ。
 遠くから弓神を見つけて、壁神はぶんぶんと必死に手を振った。
「弓ちゃーん!」
 弓神は聞こえない振りをしてそのままやり過ごすつもりが、息をきらして走ってきた壁神に袖を掴まれて、渋々振り返る。
「ま、待って!」
 袖を引っ張られて、弓神は冷たく答えた。
「…何?」
「あ、あのね…っとね…」
 弓神は、壁神が慌てて何かを言おうとしても口から声が出ないのを、息が整うまで黙って待つ。
「だから、何さ?」
 改めて不機嫌な声を出しても、壁神に堪えた様子はなかった。
 ほんの一瞬だけ微笑んで、すぐに眉を曇らせた。
「最近、咲ちゃん家に行った?」
「用もないのに行くわけないだろ」
 そう言いながら、弓神は、桜花の三兄弟にも、壁神にもここのところ全く会っていなかったことに気がついた。花神たちは大抵向こうから押しかけてくるので、わざわざ弓神から出向くことはないし、壁神は撃神と一緒にどこかは忘れたが遠いところに行っていたはずだった。
 戻ってきたばかりなのかと思い当たっても、弓神は特に何も言わなかった。

 言わなかったのだが。
「だから、何だって?」
 訊き返しても、壁神は大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、首を振るだけだった。
「…弓ちゃんお願い」
 ぽろぽろと零れ落ちる涙から、弓神は視線を逸らした。
 ため息が出る。
「…行くだけならね」
 弓神は目を輝かせる壁神の顔を見ずに言った。
「本当に行くだけだからね!」

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 咲神の部屋は相変わらず何に使うかわからない実験道具が散乱していた。全く気は進まないながらも、弓神は硝子製の皿や曲がりくねった細い瓶を踏まないように注意しながら足を踏み入れた。
「にーちゃん!」
 後ろから蓮神と蔦神が短く叫んで、部屋の真ん中にこんもりと積み上げられた薄い布にしがみついた。
「わああん、咲兄死んじゃヤだー!」
「ヤダヤダ〜!!」
 錯乱した二人が布の山をかき分けると、苦しげな咲神が発掘された。弓神が違和感を覚えたのは、咲神が眼帯を額にあげて顔を全部出しているためだった。弟たちとよく似た顔立ちの、蒼白のまぶたがすうっと開くとゆっくりと布が散らかった部屋を見回して、わんわんと泣きじゃくる蓮神と蔦神、ついで弓神の顔に目を留めた。口元がわずかに笑みを刻む。
 蓮神が咲神の首元にしがみついた。
「…ユミユミ、久しぶり」
 弟の頭を宥めるように撫でながら掠れ声で挨拶する咲神を見下ろして、弓神は思わず片膝をついた。
「冬は毎年、鶏小屋に行くんだろうが。何だってまだぐずぐずとへたばってんのさ!」
 咲神がついと目をそらした。
「…今年は寒くなるのが早くてねー…」
「にーちゃんのバカー!」
 蓮神が叫んだ。
「俺も蔦も早く燃兄んとこ行こう行こうっていうのにさ。寒くて外に出たくないってずるずるといつまでもいつまでも!」
「いやぁ」
 咲神は軽い笑いで誤魔化そうとしたが果たせなかった。冷たい目線を一心に浴びて眼帯を額から下ろして目を隠した。
「だって寒いじゃないか」
「だからってこんな力の無駄遣いしたって暖かくなるわけないでしょ!」
 すん、と鼻をすすりながら蔦神が散らばった薄い布を放り投げた。
 布は宙でくるくると丸くなると白い蕾になって花開き、そしてそのまま散る。花びらは床に着く前に消えた。
 筆神の衣は自分の通力で出来ている。寒さに弱い花神の力をいくら重ねても暖かくはならないのだ。
 だが何故か咲神は寝転がったまま胸を張った。
「気は心って言うだろ?」
「無駄遣いしないでよう! こんなのは本末転倒って言うの!」
 咲神がゆっくりと身を起こした。上体がくらりと揺れるのを蔦神が慌てて支えた。咲神は蒼白の顔ににやりと笑みを浮かべた。
「貧しくても心は錦」
「ますます、訳がわかんない!」
 蔦神は頬を膨らませた。
 何となく、自分がここにいる意味がないような気がしてきた弓神は蓮神をちらりと見る。
「あのさあ、自業自得じゃないの? 帰りたくなったんだけど」
 蓮神が横を向いたまま、弓神の袖をぎゅっと掴んだ。
 今日はよく袖を引かれる日だ。
「…だってさ…今年は冬が早くってさ、俺たちあんまり動けなくなっちゃったの。ちょっとおかしくなっちゃってるけど、咲兄なんて真っ先に動けなくなっちゃって……」
 蓮神がしょんぼりと肩を落として、涙を堪えて弓神を見上げた。
 弓神が思わずふわふわの髪に手を伸ばしてぐしゃぐしゃとかき回すと、蓮神はごしごしと自分の袖で目を擦った。

「咲ちゃん!」
 壁神が息を切らして咲神の部屋に飛び込んできた。後ろから撃神が続いて入ってくる。
「にいにを連れてきたのー!」
 撃神は軽く部屋を見回すと、腕に抱えていたもこもこの塊を渡した。
「配ってくれ」
「うん」
 撃神がもこもこを広げて咲神に着せ掛ける。もこもこは外套だった。壁神が蓮神と蔦神、弓神にもこもこを手渡して、自分の分を広げた。
「上着だー」
「あーったかーい!」
 もこもこつきの頭巾までしっかり被って蓮神と蔦神がほっとため息をついた。二人の顔から寒さから来る緊張が薄れる。
「弓ちゃん、来てくれてありがとう…」
「あのねぇ、兄貴を連れてくるんだったら僕がくる必要はなかったんじゃないの?」
「え…? にいには山までは…」
 自分の上着を羽織りながら壁神がきょとんと首を傾げた。
「だって…山に行くのに弓ちゃんがいないと無理よ…」
「待て! 何で、僕まで行くことになってんのさ?」
「にいには山でひと冬越すわけにはいかないんだもの。あたし一人じゃ三人も山に連れて行けないし…」
 いまいちかみ合わない話に眉を寄せると、ひょいと咲神を担ぎあげた撃神が、弓神を見おろした。
「出るぞ。弓も早く着ろ」

****************

 轍のない深山の雪は、風もなく後から後から降り積もって、不安になるほど柔らかい。体重をかけると、受け止められることもなくどこまでもずぶずぶと沈み込む。
 要するに歩きにくい。
 冬の冷たい陽光を反射してキラキラと輝く世界は滑らかで美しかったが、子供たちには風景を楽しむ余裕などどこにもない。
 撃神は山のふもとまでは送ってくれたが、そこからはよろしく頼むとばかりに無言で弓神の頭にぽんと手を置いて、咲神を背負わされた。撃神は慈母のお供でまた遠くへ行かなくてはならないらしい。
 上着があっても花神たちには雪山は堪えるのか、既に顔は真っ青になっていた。
「何だって僕が…!」
 弓神が深々と雪に埋まる足を引き抜くと、そのまま平衡を失って真後ろに倒れそうになって慌てて次の足を踏み出す。
 背の荷がふにゃふにゃとすぐに崩れ落ちそうになるので、必死で足を踏ん張りながら叱咤する。
「咲! どこでもいいから、とにかく真っ直ぐつかまってくれない?」
 咲神がガクガクと力が入らない腕を必死で弓神の肩にしがみつこうとするが、手が滑って上手くいかない。
「ユミユミ…見てよ。あそこに赤い光が見えるよ…」
 咲神が震える手で指し示したが、単に木に積もった雪が鈍い音を立てて落ちただけだった。
「見えるわけないだろ。蓮、蔦! どうにかしろよ!」
 遠い世界に飛んでいる咲神を手に負えずに振り返ると、壁神が一人おろおろと雪を掘っていた。
「兄ちゃんは…たのんだ…」
「うふふ…暖かーい…」
 壁神が泣きながら雪に倒れこんだ蓮神と蔦神の手を一生懸命引っ張って起こそうとしているが、立ち上がる様子がない。
「だめー! 蓮ちゃん! 蔦ちゃん! 起きて、起きて!」
「ごらんユミユミ…あれが伝説の桜の木だよ…ああ、慈母が笑ってるうふふ、あはは…ぐぅ」
「さ、咲ー!!」
 弓神はがっくりと崩れ落ちた背中の咲神をガクガクと揺さぶった。
「寝るなァ! 寝たら死ぬぞ!」
 咲神がむくりと頭を起こした。
「失礼な。寝てないよ。寝てないからね。ぐぅ」
「ぐ、ぐうじゃないよ! 寝たら死んじゃうんだって!」
「二人とも、起きてー! 起きて歩いてー!!」
 壁神の悲鳴が音のない世界にこだました。
 弓神は必死で背中を揺さぶりながら、雪を掻き分け前に進む。
 雪はどんどん深くなっていく一方だ。

 行き先はまだ遠い。