※このお話は以前更新した「花&弓」小説の続きです。

 

1 

 弓神は深々とため息をついた。
 背負った籠からおじさん顔が「ぎゃ」「ぎゃ」と絶え間なく音を立てている。
 丸くて赤い恨めしげな顔がこちらを見つめているとわかっていたので、弓神は決して振り向かなかった。
 どうして咲神の作った寂しい中年男性顔の果物なんぞを慈母に届ける羽目になっているのか。
 まんまと口車に乗せられた弓神は舌打ちした。
 ぽんぽんと跳ねるように歩く蓮神と蔦神の後ろ姿に向けて籠ごとおじさん顔をかなぐり捨てそうになるが、じっとこらえる。
 今は耐え忍んで、時を見計らわねばならない。
 前の二人をどうにか丸めこみ、慈母の口に入る前に、味はともかくこの外見が壊滅的な果物をまとめて捨てなければならないのだ。
 このようなものを慈母の口に入れてなるものか。失敗は決して許されない。

「み〜んな〜!」
 突然上から声がして三人が空を仰ぐと、風神が手を振りながら急滑降してくるのが見えた。周りの草木が風に揺さぶられてざわざわと音を立てた。砂埃が舞い上がる。
「風姐!」
 顔に吹きつけた突風に三人が思わず目を閉じてやりすごし、風が収まって顔を上げると、風神が満面の笑みを浮かべて立っていた。
「何してるの?」
 重さを感じさせない長い髪と鮮やかな衣装の裾をどこからともなく吹く風になびかせている。
「人騒がせな登場を…」
 風神の着地の際に髪や服に付いた草の葉っぱを忌々しげに払いながら弓神が毒付いた。
 風神は軽く片手を挙げて「ごめんねっ」と謝ったが、弓神はそっぽを向いてしまった。蓮神と蔦神が頭に葉っぱを着けたまま元気よく手をあげる。
「慈母のとこにねー」
「おつか〜い」
 風神があらあ、と口に手を当てる。
「弓ちゃんまで珍しいわね〜」
「なっ…!」
 からかわれる様に笑われて、弓神がついムキになって言葉を継ごうとすると風神が急に大声を出した。
「あーっ、いっけない!」
 真っ青な顔で風神は「ちょっと待ってて!」と言って裾を翻して再び空中に飛び上がった。
 三人は瞬く間に点になる風神を見送る。
「何なんだよもう…」
 弓神が呟いてすぐに、上空から風神が突風とともに着地したが、今度は一人ではなかった。
 先ほどまでの華やかさが嘘のように半泣きで、げっそりやつれた燃神の腕を支えている。
「あれー? 燃兄?」
 子どもたちに軽く手を挙げ、キセルを口に当てた燃神の顔色は悪かった。
「風姐よォ…」
「え、えへへへ」
 風神がひきつった笑みを浮かべた。
「何があったのー?」
「あーっと、うん。燃ちゃんがちょっと遠いところで用事があるっていうから私が連れてってあげてたんだけど…蓮ちゃんたちを上から見かけてー、あー」
 風神が気まずそうに燃神から目を逸らした。
「燃ちゃんを放り出しちゃったの…」
「空の上で?」
 目をまん丸にした蔦神の問いに、燃神が遠い目で空を見上げた。
「地面に激突寸前で拾いに来てくれたけどなァ」
 子供たちは風神と燃神を見比べた。
「えーっ!それはひどいっ」
「…バカだ」
 囂々たる非難に風神は返す言葉もないと肩を落とした。
「俺ァ、今回ばかりは本当に死んだと思ったぜ」
 燃神は深々と吸い込んだ煙を吐き出して言った。煙草で落ち着いたのか顔色は大分良くなっている。
「ごめん…」
 燃神はニッと笑みを浮かべて、風神の肩を軽く叩いた。
「ま、俺はピンピンしてるしな、もういいや」
「も、燃ちゃん…」
 風神の目がじわりと潤む。
「風姐もあんまり気にすんなよ」
「燃ちゃあああん!」
「うわっ」
「…ほんっとにバカだ…」
 風神が感激のあまりに燃神に力いっぱい抱きつき、怪力を尽くして締め上げよう――弓神にはそう見えた――としたところで、蓮神と蔦神は顔を見合わせて笑った。背中の籠をいつの間にかちゃっかり下ろしている。
「じゃあ、仲直りも済んだってコトで!」
「おやつはどうでしょう!」

「じゃじゃーん!」
 蓮神と蔦神が取り出したモノを見て、風神と燃神は首をひねった。
 毒々しいほど真っ赤なおじさんが「ギャ」と物悲しげに鳴く。
 確かに嫌な雰囲気は一掃され別の空気が取って代わりはしたが、しかし雰囲気が変わりさえすればいいというものでもない、と弓神は口に出さずに思った。そして密かに距離をとった。
 風神が怪訝な顔で蓮神と蔦神を見た。
「えーと…誰?」
「誰じゃなくて、咲兄が作ったおじさんだよ」
 蓮神が言うと、風神と燃神がますます訳の分からない顔をした。
「蓮兄、それじゃわかんないよ。えーとおじさんの顔したおやつです」
 蔦神は、より食欲を削ぐ説明を付け加えて風神と燃神におじさんを渡した。
「果物だよ。甘くておいしいよ。どうぞ」
 そう言われても風神には全くそうは見えなかった。そもそも、食べ物に見えない。
 おじさんと目が合っては背中に悪寒が走る。
 燃神は真っ赤な実を光にかざした。おじさんの顔が逆光で見えなくなり、途端にこの上なく美味そうに見えた。
 風神は燃神と視線を交わして、目をキラキラさせる蔦神と蓮神と、一歩下がって他人の振りをしている弓神のそ知らぬ顔をそれぞれ見て、最後に手の中のおじさんを眺めた。
 絶対何か企んでいる。
 胡散臭い。この上なく胡散臭い。
「でも咲ちゃんが作ったってことは…味はいいのよね…」
 問題は味じゃないというのは分かるが、いつも奇想天外のいたずらを仕掛けてくるのだから気は抜けない。
 未だにためつすがめつする風神に、燃神はキセルを口から外した。
「まァ、せっかくくれたんだしな。いただこうぜ、風姐」
 燃神は風神が止める間もなく、おじさんに歯を立てた。
 ――そして案の定真っ赤な果汁が周囲に飛び散った。
 蔦神が小さく付け加える。
「咲兄が〜血糊が出るから注意、だって」
 蓮神が真っ赤に染まった燃神の顔を見て、悪戯成功とばかりにニコニコと笑うと、燃神が真っ赤な口でニヤリと笑い返す。
「…旨かったと咲に伝えといてくれ」
 燃神が残りを口に放り込み、目の周りを手で拭った。べっとりと果汁が滴る指先を軽く振る。
「あと、そういうことは――」
 燃神はキセルを腰に差すと、蓮神の首を引き寄せて汚れた手で髪の毛をわしゃわしゃとかき混ぜた。
「先に言えよな!」
 一瞬の隙をつかれて逃げ遅れた蓮神のふわふわした髪が赤いまだらに染まる。
「うぎゃー!」
 蓮神が暴れるが、燃神は片手でがっちり押さえたまま、大股で回れ右して逃げ出そうとした蔦神に追いつき、その襟首を掴んで二人まとめて腕の中に抱き込んだ。
「蓮兄〜!」
 比較的汚れが少なかった蓮神と蔦神の衣も真っ赤な果汁がべっとり付いたが、二人はきゃーきゃーと喜んだ。
「アッハッハ、これでどうだい!」
 燃神が笑いながら腕の力を緩めると、蓮神と蔦神は勢い余って地面に転がり込んだ。燃神は果汁で汚れた顔を無造作に拭うと再びキセルを取り出した。
 おじさんの実を食べていないにも関わらず、果汁で真っ赤に汚れて、ついでに土まみれになった蓮神と蔦神はちらりとお互いを見て笑い合った。そして申し合わせたように我関せずで立っていた弓神に突進した。
「ユミユミ〜!」
「あ〜そ〜ぼ〜!」
「お、お前ら近寄るなよッ」
 ぎょっとした弓神が籠を背負ったまま、慌てて杵を振り上げたそのとき、風神の地を這うような低い地声が聞こえた。
「蓮ちゃ〜ん…、蔦ちゃ〜ん…」
 その瞬間に弓神が杵をぴたりと止め、蓮神と蔦神がびくりと振り向いた。前髪がばっさり目にかかって表情はわからないが、風神のくちびるがにいいとつり上がる。
 怖い。色々な意味で怖い。
「うふふ」
 風神はほんの少し顔についた果汁を軽く拭って無言で腕を振り上げた。真上に向かって突風が巻き起こった。
 燃神のキセルの煙が竜巻に巻き込まれて瞬間的に消え、各人に付いた赤い果汁だけがきれいに吹き飛ぶ。
 かごの中のおじさんたちが「グェ」と鳴いた。気持ち悪さが大分勝る物悲しい音だが、誰も構うものはいなかった。
 風神がくるりと蓮神と蔦神に向き直って満面の笑みを浮かべると、子供たちは蛇ににらまれたように立ちすくむ。
 不気味な笑顔のまま、風神が一歩踏み出したそのとき、燃神がキセルをぷかりとふかして、こっそり子供たちに片目を瞑ってみせた。

「風姐、あまり時間がねェぜ?」

 風神がふっと瞬きした。
 長い睫毛がぱちぱちと大きく瞬くとともに空気が緩む。
 風神はコロッと我に返って頬に手を当てた。
「あらやだ、もう行かなきゃよね。じゃあみんな、また今度ね」
 風神以外全員が内心息をついたところで、安心した蓮神が更にうっかり地雷を踏んだ。
「風姐は食べてかないの?」
 能天気な一言に再び場が凍りつく。今度は風神もにっこり笑って済ませてくれた。が、決して目は笑っていないのは気のせいではないだろう。蓮神の後ろに隠れて蔦神がこっそりと燃神と弓神にぺこぺこ頭を下げる。
「いやだわぁ、いい女は人前でそんな醜態晒さないものよ〜。後でいただくわ!ごちそうさまって咲ちゃんに伝えておいてね〜」
 腰に手をあてて高笑いした風神はそう言って燃神の腕を掴み、風を巻き起こして飛び上がった。
「そうだ、断じいをあっちで見たわよ。その中年顔、あげに行くといいわ!」
 風神は手で飛んできた方角を指し示すと、裾を翻し上空に駆け上がった。その様子を三人で見送る。
 あっという間に小さくなる人影に、三人は息を吐き出した。
 蔦神が額の汗を拭った。
「女の人は難しいねえ蓮兄…」
「そうだよな〜…」
 蓮神は今一自分に振りかかりそうになった危機を自覚していないようだった。
 弓神は頷きあう兄弟たちを横目に、しかもそこは肯定かよと――いちいち突っ込むのをやめた。
 蓮神が断神を上から探してくると言い置いて、高い木を見つけてするすると登りだす。
 蔦神と弓神がどんどん登る蓮神を目で追っていると、晴れた空にぽっかりと白い小さな月が浮かんでいるのが見えた。
「ユミユミは月に行ったことある?」
「さあね。どうでもいいだろそんなこと」
 蔦神に訊かれて、弓神はすげなく突っぱねた。
「そうだよねえ」
 女の人もだけど、ユミユミだって十分難しいよね〜と蔦神はこっそり思って頭をかいた。
 蓮神と蔦神にとって風神は立派な女の人である。だって本人がそういうのだから。

 

>>2へつづく