燃神はキセルからぷかりぷかりと煙を吐き出しながら歩いている途中で、首の後ろ辺りをぽりぽりと掻いて立ち止まった。
 ぐるりと見回すと周りには特に物珍しいものもない。
 蝉の声は高らかに、照りつける太陽もまぶしい。
 間違いなく今は燃神が年で一番好きな季節である。
 そのはずだが、変わったことがただひとつ。
 あたりの気温が突然下がっている。
 ここだけ燦々と降り注ぐ慈母の恵みをひんやりとした空気が和らげている。
 相変わらず首の後ろをぽりぽりと掻きながら燃神は立ち止まって欠伸した。
(ここらへんかねェ…)
 燃神はキセルを口から離して長く煙を吐き出すと、おもむろに道の脇に誇った槿(むくげ)の茂みを掻き分けた。槿の白い花の縁がぱりぱりに凍りついている。一面に霜が降ったように真っ白になった葉を退けると、茂みの中から白い冷気が立ち上ってたちまち空気中に消えた。

「凍兄、こんなとこでどうしたんだい?」
 燃神は予想通り、暗い茂みの中に蹲った凍神を発見して声をかけた。
 凍神は突然明るくなった視界に肩を震わせると、ノロノロと顔を上げた。
「燃さん…」
「せっかくの槿が凍っちまってるぜ」
 燃神がキセルを口の端に銜えたまま、片頬を上げて器用に笑ってみせた。凍神が感情の調節が上手くいかず、ついでに温度の調節も上手くいかないのはよくあることだった。悩みを他に話すことによって感情が収まることもある。真夏を真冬に変えられるわけにもいかないので、燃神は凍神の事情を聞くことにした。
 凍神はどこを見ているか分からない目をして言った。
「いや…寒くて」
 燃神は思わず口の端からキセルを取り落としそうになった。
 冗談でも氷を司る筆神から出る言葉ではない。燃神が「熱い」というのと同義だが、そんなことはまずありえない。燃神が燃神である限り、劫火は自分の命そのものだ。
 つい鸚鵡返しに口から出る。
「寒い!?」
 凍神が暗い目をしてこくりと頷いた。
「うん…心が…寒い」
 そう言うと凍神はまた抱えた膝に頭を埋めてしまった。

 別の意味で絶句した燃神は、立ち尽くしたままキセルを口から落として我に返る。軟らかい土にキセルがぽすっと突き刺さる。
「あ…ああ、うん、そういうこともあらァな…」
 燃神は動揺を何とか隠して立ち直った。こういう話は聞くしかない。下手に口を出すと凍神は自分の殻に籠もりきって出てこなくなってしまう。
 凍神は燃神の状況には気づかないまま、ぽつりぽつりと下をむいたまま口を開いた。
「さっき、濡さんが一人でいて話しかけようとしたんだけど…」
 燃神は少し遠い目でウンウンと頷いた。
「こないだは声をかけようとしたら『凍るからごめんなさい』って言われてさ」
「そんなことも…あったなァ…」
「今回は少し距離をとって話しかけようとしたんだけど、濡さんが凍らないから大丈夫って距離をとると今度は相手にちっとも気づいてもらえなくて。俺は話しかけることすらできないんだよ…。ただの世間話もできないと思うとね…。慈母の恵みがこんなに降り注ぐ季節なのに」
 凍神はそれだけ言って少し微笑んで口を噤んだ。
 むしろそれだけか、それだけなのかと燃神は喉元までこみ上げた突込みを飲み込んだ。周りの気温も元に戻りつつあることだし、このかわいそうな槿と自分の拭えない疲労だけで被害が済んだだけでよかったではないかと無理やり思い込む。燃神は大人だった。

「そうかい」
 疲れたような一言で、燃神は「なァ、今から慈母のとこにでも遊びに行かねェかい?」と話を終わらせてみた。