桜花三神はとても仲がいい兄弟である。
 そのこととは特に関係がないが、彼らの住まいには開かずの間がある。
 開かずの間である。
 でもたまに開く。そして開いたときには碌なことがない。

 バキバキメリメリと天井を突き破る音が響いて蓮神と蔦神は肩を竦めて顔を見合わせた。
「咲兄…」
「今度はどう…」
 同時に背後でギギイと音がした。
 この止まない嫌な予感から逃れる術はもうないことを彼らは悟っていた。
 何故音がした瞬間に家を飛び出さなかったのだろうか。
 快活な彼らには珍しく、心から後悔した。

 恐る恐る振り返ると開かずの間が開いていた。
 つぎはぎだらけの扉がギイイイと不吉な音を立てて自動で全開になった。
 どういう仕組みになっているのか兄に訊ねたことはない。
 扉の中でくるりと振り向いた咲神は弟たちに向かってにこりと笑った。
「見たな? お前たち」
 蓮神と蔦神はそのまま踵を返そうとした。
「い、いや何も…」
「見てないッ、何も見てないよウンほんとに」
「じゃあ俺たちはこれでッ」
 咲神の笑顔が恐ろしかったが、逃げることはできなかった。
 いつの間にか真後ろに来ていた兄にがっしりと肩を掴まれて、蓮神と蔦神の顔が引きつった。
「まあまあ、見たなら入って行くといい。ちょうどおやつが出来たところだし」
「や…あの」
「咲兄〜僕たち今から遊びに〜」
 咲神はちょっとたしなめるように言った。
「後にしなさい」
 蓮神と蔦神は絶句した。
「…ッていうか、アレ何〜咲兄〜! 部屋に生えてるアレ一体何〜!!」
「おやつに決まっているじゃないか」

 開かずの間は咲神の私室である。
 いつも優しい兄があの部屋から出てくるときは人が変わる。
 あの部屋にいるときの兄に弟たちは自分からは決して声をかけない。
 部屋はある程度の面積は確保されているはずだが、置いてあるものはさまざまな形の硝子製の瓶や、謎の薬品、大量の植木鉢等でいつも足の踏み場もない。
 その、いつもは開くことのない部屋の真ん中に大木がそびえていた。
 天井を突き破って生い茂る木は見たこともないものだった。
 幹にびっしりと真っ赤な実がついていた。何故か小さく「ギャ」「ギャ」と鳴くそれを見て、蓮神と蔦神の背筋に悪寒が走り抜けた。
「い、いや〜だ〜!」

「というわけなんだ」
「咲」
 咲神は弓神をニコニコとみつめている。弓神は舌打ちした。
「何がさ。説明するなら最初から最後まで全部しろよ! 面倒だからって省略して『というわけ』で済ましてどうするんだよ。蓮に蔦、お前らも一体どういうつもりさ!」
 蓮神と蔦神が半べそをかいて兄の背中に隠れた。
「だって〜、咲兄が慈母の危機かもしれないからユミユミを呼んできてって言うんだもん〜」
「渡りに船、じゃなくて僕たち言われたとおりにしただけだもん!」
 「慈母が大変だ!」と大騒ぎする蓮神と蔦神に連れられて弓神が慌てて咲神のところへ駆けつけると、慈母の姿はどこにも見えなかった。咲神に「よく来たね」と歓迎され、お茶を振舞われてつい口をつけてしまい、やっと我に返ったところだった。
「何なんだよだからその危機って!」
「うんうん。今から危機になるかもしれないから」
「あいまいな話で人を呼ぶなよ…」
 咲神はそれには笑って答えなかった。
「咲兄…本気?」
 笑顔で頭を撫でてくる兄の顔を、蓮神は不安げに見上げた。聞くまでもなく兄が本気なのは分かっている。
「でね、ユミユミが気に入ってくれたら慈母にあげようと思って」
 咲神が開かずの間から持ってきたかごを見て弓神は息を呑んだ。
「さ〜みんな、おやつだよ〜」
 確かに外見が既に危機だった。
 かごにつみあがった真っ赤な実は全て寂しげな中年男性の顔をしていた。
 「ギャ」「ギャ」と思い思いに鳴くそれが、一斉に蓮神と蔦神と弓神の方向を向いた。
 恨めしそうな目が追いすがる。咲神は植物しか作らないから、動物ではないことは分かっている。
 しかし気持ち悪い。ものすごく気持ちが悪くてしょうがない。
「なかなかかわいいだろう? 食欲をそそる赤で色を統一してみたんだけど。ユミユミどう?」
 少し得意そうな咲神の顔に三人そろって声もなく固まった。
「…これを慈母に?」
 弓神は動悸が治まってからやっと口を開いたが、声が震えている。
 弟たちは手を取り合ったまま、物も言えないようだった。
「そうそう」
「…僕が気に入らなかったら?」
 咲神は少し首を傾げてぽんと手を打った。
「もったいないから、やっぱり慈母にあげに行こうかな」
 弓神の肩が怒りで震えた。
「危機も何もお前が今から作る慈母の危機なんじゃないかよ! 大体僕が食べる意味はどこにあるのさ!!」
「ユミユミは心配するんじゃないかなと思って」
 咲神の思わせぶりな間に弓神がたじろぐ。
「な、何?」
「え、慈母の心配しないの?」
「し、心配なんてするわけないだろ! いちいちお前までユミユミって言うなよ」
「そうだよね。ユミユミがさ、こんなものを慈母に食べさせる前に毒見みたいなことをさ、やるわけないよね」
 そう言いながら咲神はさりげなく弓神に真っ赤な実を渡した。
 弓神は何気なく受け取ってしまい、はっと眉を顰めた。
「何渡してるのさ…」
「ん? まあ味見だけでもしてくれたらいいじゃない」
「言ってることがなんか矛盾してないか?」
「どこが?」
 咲神は弟たちにも赤い実を手渡す。
 弟たちは素直に受け取る。絶望的な目で手の中の果実(※おじさん顔)をじっと見つめた。 
「ギャ」と鳴くおじさん顔(※寂しげ)の果物をどう食えというのか。まずどこに歯を立てろというのか。
 と思っていたら弓神が叫んだ。
「どう食えってのさ!」
「僕は食べられないものなんて作らないよ」
「じゃあまともに食べられるものを作れよ!」
「味は保障する」
「そういう意味じゃないよッ」
 咲神が口を尖らせた。機嫌を損ねたらしい。
「じゃあもういいよ。食べないなら全部慈母のとこにもっていくから」
 慈母は咲神が何を持っていってもきっと全部食べてくれるだろう。
 弓神は瞬時に判断した。
 こんなものを慈母に食べさせることなどできるものか、難癖つけてでも阻止しなければならない。
「た、食べないとは言ってないだろッ」

 咲神は必死の弓神をじっと見つめて、それから弟たちに視線を移した。
 半泣きの蓮神と蔦神はおじさんをそーっとかごに戻そうとしていた。びくりと肩が跳ねる。
「ヒッ…!」
「食べるよ…食べるから〜!」
 咲神に無言で見つめられ、三人は観念した。
 目をつぶって深呼吸する。
「せ〜のッ!」
 弓神の掛け声で口をあけ、おじさん目掛けてかぶり付いた。
 おじさんは「グエ」とうめき声を上げたが、三人は必死で知らない振りをした。
 そして、飛び散る果汁。染まる視界。
 口の中は瑞々しいしゃっきりした歯ざわりとともに甘い果汁が広がった。
 微かに酸味があり、甘さの割りにはすっきりとした口当たりで、いくらでも食べられそうだった。

 蓮神と蔦神は目を開けたが、前が真っ赤でよく見えない。
「おいし〜い!」
「咲兄さすが〜」
 兄が保障したおじさんの味は極上だった。
 蓮神と蔦神は、齧られて片目だけ残ったおじさんの無念の表情などもう気にならなかった。
 二人の美徳は割り切りの速さと見た目で物事を判断しないことである。
 彼らの頭の中では、おじさん顔ごときでこんなにおいしいものをあきらめるだなんて!と切り替わっている。
 有り体に言えば蓮神と蔦神は味に屈した。
 手元にある残りを口に放り込み次に手を伸ばす。
「お前たち、とりあえず顔を拭いてからにしなさい」
 咲神は弟たちの顔を布でごしごしと拭いてこすった。
 布が真っ赤に染まる。
「咲〜…」
 咲神は顔を真っ赤に染めた弓神にも布を渡した。
「あ、ごめんごめん。先に渡せばよかったね」
「何だよ…これ」
 弓神が顔を手で擦るとべっとりと赤い果汁が手についた。これは果汁というよりも――。
「果汁、血糊風」
 弓神が乱暴に顔を拭った。
 頭を振ると拭いきれていない赤い果汁が銀色の髪の毛の先からぽたぽたと滴り落ちたが、弓神は構わなかった。
「果汁を血糊にする意味がどこにあるのさ!」
「意味? そーだなあ、楽しそうだなあとかそれくらい?」
 しれっと言い放った咲神に弓神は言葉を失った。
 蓮神と蔦神は両手におじさん顔を持って噛り付いている。
 二人とも飛び散った血糊風果汁で既に全身を真っ赤に染めていた。部屋に散った果汁も相まって、まるで猟奇殺人現場のような趣になっている。
「ぶしゅって飛び出てびっくりするけど面白いよー」
「そしておいしいよ〜咲兄すご〜い」
「ユミユミももっと食べなよ」
 そう言いながら二人はあっという間にかごを空にした。
 顔を洗ってくると言って家から出て行った二人を目で追って、弓神は息を吐いた。
 この食後の惨状はともあれ、とりあえず慈母の口にこれが入ることなくこの場で全部なくなったことに安堵して、手に持ったままの食べかけを口に入れた。
 味は文句つけようがないのが本当に忌々しい。
 舌打ちして顔と頭を適当に拭い、布を咲神に投げ返す。
「じゃ、一応ご馳走様とは言っとくよ。じゃあね」
 そういい捨てて立ち去ろうとした弓神の肩を咲神の手ががっしりと掴んだ。
「いやあユミユミ、気に入ってくれたみたいでよかったよ」
 弓神は嫌な予感がして、振りほどこうとしたが、肩に食い込む手の力がますます強くなっただけだった。
「気に入ったわけじゃ…」
「食べてくれたじゃない」
「食べたからって気に入ったわけじゃ…」
 咲神が少し沈んだ声を出した。
「おいしくなかった?」
「…」
 味はよかった。ただしそれを認めるのがしゃくにさわって、弓神は黙り込んだ。嘘をつくのは性分ではない。
「というわけで」
「『というわけで』じゃないよっ。何も言ってないだろ? どこに連れて行くんだよっ」

「というわけでお前たち、ユミユミと一緒にこれを慈母のところに持っていって欲しいんだ」
 咲神は開かずの間にそびえる大木の前で、弟二人と確保したままの弓神に向かって言った。
 大木の根元におじさん顔の真っ赤な実が山盛り入った縄付きのかごが三つおいてある。
 一斉に恨めしげな視線を向けてくるおじさんに弓神の顔がひきつった。
「食べた分で全部だったんじゃ…」
「そんなことは言ってないよ」
 木を見上げていた弟たちも同調した。
「僕たちも言ってないよ〜」
「ね〜?」
「そもそも何で僕が行かなきゃなんないのさ! 咲が行けよ!」
 声を荒げるとおじさんたちの視線が一斉に弓神に集まった。味はともかく本当に気持ちが悪い。
「今度は七色のおじさんを作ろうかと…」
「何のためにさ!」
 咲神が首を傾げて言った。
「…一本で七度おいしい?」
「おいしいわけがあるか!!」
 弓神は本当に苛々した。どうして咲神の楽しみのためにここまで自分が苦労してやらないといけないのか。
 しかしここで弓神が本気で拒否すると、このとんでもない果物が慈母の口に入る確率がこの上なく高くなってしまう。
 捨ててやる。絶対蓮神と蔦神を途中で言いくるめて途中で全部捨ててやる。
 決心した弓神はかごに無理やり杵を突っ込み乱暴に背負った。
「あ、後で僕も慈母のところに行くから、途中で捨てないでね!」
「ユミユミ待って〜!」
「わわっ、おじさんが落ちるう〜!」
 絶っ対に捨ててやる。
 弓神は固く決心して三兄弟の家の扉を荒々しく閉めた。

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「咲ちゃーん!」
 壁神が向こうから一生懸命走ってくるのが見えて、咲神は微笑んだ。
 息を切らす壁神の髪の毛の鈴がりんと音を立てた。
「…あのね、今日は濡のおねえちゃんとあそんでもらってるの」
 後からやってきた濡神は少し済まなさそうな顔で言った。
「私もご一緒してもよいかしら」
 咲神は笑ってかごを二人に差し出した。
「壁ちゃん、もちろん濡神さんも、どうぞ。これ作ったの」
 かごの中身はおじさん顔の実と同じものだが、顔がついていなかった。
 つまり普通の赤い木の実だった。
 歯を立てても血糊風果汁は飛び散らない。つまり普通だった。
 普通あるなら最初からそれを出せと弓神に怒られそうだが、それでは咲神は楽しくない。
 しかし味はよくできたので、こっそりと壁神用を作ってみた。そして七色のおじさんに取り掛かってうっかり忘れる前に渡しに来たのだ。
「おいしーい…」
「ほんとに…」
 濡神と壁神の賞賛に咲神は笑顔になった。
 喜ばれるのは純粋に嬉しい。

 二人と別れて、咲神は大きく背伸びした。
「よし、帰ったら七色のおじさんだ」
 こんなにうきうきする咲神は大変に珍しい。
 彼が年相応に見えるのは実験のときだけである。

 そして実験結果については、味は保障するが、その他の保障は一切しない。