何かがおかしい。
 決定的におかしかった。

 蘇神は僅かに眉を寄せて、視線を落とした。肩から下に流れる銀の髪がさらさらと揺れる。
 蘇神は視線の先の小動物、否、断神をどうしていいものか判じかねていた。
 先ほどのやりとりを反芻する。
 断神が「腹が減ったのである」と言いだし、蘇神は適当に懐から何かを取り出して投げつけた。それを断神がもぐもぐと黙って食べた。
 そこまで考えて、蘇神は懐に手を入れる。
 蘇神の懐には断神用に食べ物を常備してあるが、そこらにあるものを放り込むだけなので全く意識したことがなかった。
 一口食べてみる。
(酒まんじゅう…)
「蘇よ」
 蘇神の肩が跳ねた。
「何だ」
「どうしたのだ。具合でも悪いのであるか?」
「い、いや」
 断神の丸い大きな目が蘇神を見上げる。蘇神はものすごい勢いで目を逸らした。背中にじわりと冷たい汗がにじむ。ちなみに美形は顔に汗などかかない。
 蘇神はじりじりと後ろに下がった。断神が心配げに断神の顔を見ているのはわかっているが、恐ろしくてそちらを見ることなどできない。
 蘇神がこんなにまじまじと断神に見つめられたことなど今までにあっただろうか。いやあるわけがない。
 この場合の反語は強い否定である。
 試験にもよく出る。

「やけに顔色が悪いのである」
 伸ばされた細い腕に蘇神は弾かれたように後ずさりし、背中を太い木の幹にぶつける。
 断神は腕を引っ込めて、頷きながら思いやり深く微笑んだ。
「そうだな。ここでしばらく休んでいるとよい」
 蘇神はここに至ってやっと確信した。
 断神の顔色は全く変わっていないが、焦点が全くあっていない。
 まさか、まさか。
(酒まんじゅうで酔った、のか…?)
 断神に限ってありえないだろう。
 蘇神は何も言えずに座り込んだ。

 酔っ払いは実に甲斐甲斐しかった。
「薬湯などはどうか」
 と心配そうに言ったかと思うと、とことことどこかに出かけて行き、すぐに薬草と水を持ってきたかと思うと、ちょこまかと乾いた古木を引きずってきて剣を振るい一瞬で薪を作る。大きな石に大剣をたたき付けて火を起こし、あっという間に薬湯が出来た。
 蘇神は勢いに呑まれたまま、にこやかに渡された薬湯に無理やり口をつける。
 豊かな滋味の中にほのかな酸味と甘み。
 驚いて断神を見ると、心配気に見つめ返される。
「疲れが溜まっているのではないか」
「いや…」
「今から古寺に妖怪退治に行くのであろう。今回は我が一人で行くのである。お主はここで休んでおれ」
 蘇神は薬湯を手にしたまま思わず口をあけた。
「ああ、我としたことが忘れておったとは」
 断神は「しばし待つがよい」と言い置いてまたとことこ出かけて行き、今度はどこからか大量の布を運んでくる。
 固まったまま動けない蘇神の前に布を積み上げ、
「これを使って休んでおくがよい」
 と笑顔で言った。
「うむ。なるべく色々壊さないようにするが、後で、確認しに行ってほしいのである」
「あ、ああ」
「具合が悪いのに迷惑をかけるが、あとは我に任せてここでゆっくり休むがよい」
 そして断神は心配そうに振り返り振り返りしつつ、一人で妖怪退治に出かけていった。

 蘇神は喘ぐように息を継いだ。
 あれは誰だ。
 断神には間違いないが、何だあれは。
 理想の断神とでも言うつもりか。
 理想の断神。
 腹減った眠いとうるさくない断神。
 面倒くさいと何でも斬り捨てない断神。
 きちんと説明する断神。
 思いやりがあり、仲間に気を使う断神。
 夢のようではないか。
 そんなものがあってたまるか。
 そして唐突に思い当たる。
(そうか、夢か)
 蘇神は納得した。
 断神が酔っぱらってまともになることなどあるわけがない。
 あってなるものか。
 認めたくはないが、あれは理想の断神だ。
 夢の中でこのような幸せ気分など味わっても、起きたときが虚しいだけだ。
 蘇神は夢が覚めてしまえと願ったが、一向に覚めそうにもない。
 こうしているうちに、断神が帰ってきて更なる幸せ気分など味わわされてはたまったものではない。
 名案が浮かんだ。
(今、寝てしまおう)
 夢の中で寝てしまえば、きっと起きた時にはすべては元通りに違いない。
 それはそれで虚しいが、現実とはそんなものだ。
 蘇神は断神が山ほど持ってきた布を被って、横になった。
 そしてそれこそ無理やり寝た。

**********

 蘇神は跳ね起きた。
 記憶が残っている。
 妙に現実的な夢で、どこまでが本当か夢か、自分がいつ寝たのかもわからなかった。
 足元に重みを感じて、見ると断神が丸くなってうつらうつらしている。
 地面の上でも平気だろうが、布が羨ましくなったのだろう。
 しかしこの布はどこから持ってきたのか。
 蘇神は何となく疲れたような気持ちでため息をついた。
 しかし当初の予定を思い出して青褪める。
「断神よ」
 断神がくわっとあくびをした。
「何だ」
「妖怪退治はどうしたのだ」
「さて」
「お主が一人で行ったのか」
「知らぬ」
 蘇神は布を跳ねのけて立ち上がった。
「知らぬわけがあるか」
 断神は答えない。
 そのまま布をかき集めると丸くなって寝てしまった。

 蘇神は断神を置いて、急いで古寺へと向かった。
 妖怪はいなかった。
 妖怪どころか古寺もなかった。
 そこには小さな湖ほどもある穴がごっそりと開いていた。
 蘇神は力なく肩を落とした。

*************

 断神の酔いは妖怪退治の途中に醒めてしまった。
 正気に返った断神が何を考えたかはわからないが、断神はいつもの通りにことを終わらせた。
 できあがったのが、寺の数十倍の広さをもつ大穴である。

 その後、蘇神は断神に決して酒を与えようとはしなかった。
 蘇神はもう夢など見たくなかったのだ。
 夢の後始末など二度とご免だった。

 しかし、蘇神が幸せを逃しがちなのもしょうがないことなのではなかろうか。いやしょうがあるまい。
 なお、この場合の反語は強い肯定である。
 実際試験にもよく出る。