青いアジサイの上に、しとしとと雨が降る。滴が絶え間なく木の葉を叩く。
 靄がかる濃い緑の山間は、まるで水の底のようだった。
 その中に傘も差さない人影が2つ、佇んでいる。

「もうそろそろでございますわ」
 若い女の遠慮がちな声に、もう片方が答える。快活な男の声。こちらも若い。
「そうだな」
 雨の中というのに、男が手に持ったキセルからは薄い煙が上がっていた。
 軽く肩に引っかけた白い羽織の裾が赤い炎を出してチロチロと燃えている。
 男に降りかかる雨は、体に触れる前にじゅっと音を立て、水蒸気になって消えていった。
 男は、燃神はキセルを深々と吸い込んで、丸い煙をぽわっと吐き出した。
「俺の出番かい」
 ニッと口の端をつり上げて、隣の女を見る。
 頷く女は男とは対照的に華奢な肩に流れる長い髪が雨の中にとけ込んで、透けるように足下まで流れていた。
 真っ白な顔の、長いまつげの先にも雨の滴が滴って、泣いているように見えた。
 流れる水の滴に反射した光が、真珠が流れているように女を彩っている。

 燃神は上を向いて目を瞑り、何事か祈って、あっけなく濡神に向きなおった。
「終わったぜ」
 濡神が空を見上げると、雨雲が切れて、日が差し込む。徐々に雨が弱くなってやがて止んだ。
 雲の切れ間から青空が見え、木々の葉にたまった滴がまとめて地面にぱたぱた落ちて、水滴が日を浴びキラキラと光っている。
「早いんですのね」
 燃神が羽織りをはためかせて笑う。
「俺は慈母の御恵みを願うだけさ」
「私だってそうですわ」
 筆神たちの祈りに応えて、季節は継ぎ目がわからないほど穏やかに、でも確実に変わってゆく。
 すべては慈母の御心のままに。
「今年はこれでお米もちゃんととれるでしょう」
「ああ、あとは日照りに気をつければ…、っと」
 燃神が振り向いた。

 上空にぽつんと点が出来た。それがみるみる大きくなる。
「あれは…」
 点は、雨上がりの湿った空気を切り裂いて近づき、嫌というほど見覚えのある人影になった。
 実際、空を飛んでくる知り合いなど数えるほどしかいないが。

「燃ちゃ〜ん、濡ちゃ〜ん」
「降〜ろ〜し〜てェェェ!!」

「風神さん!」
 あっという間にやってきた風神が五色の裾をはためかせて二人の前に降りたち、吊り下げていた大きな荷をぽんと放り出した。荷がうめき声をあげる。とっさに燃神が濡神を自分の背で庇った。
「…と、凍兄か」

 地面に倒れ込んだ凍神が風神を涙目で見上げる。外套の端が触れた地面がパリパリと凍りついた。
「風さん、俺もういいっていったのにッ」
「んもォ、だらしないったら」
 風神は凍神に一瞥くれて、二人に向き直った。
「二人ともおつかれさま〜! もう、聞いてくれる〜? 凍ちゃんたら、高いとこが怖いなんて言うのよッ!」
 明るく手を振って笑う風神を凍神がキッと睨みつけた。
「言ってないよッ。なのに風さんはいつも、いっつも無理矢理ッ!」

 ちなみに凍神は高いところではなく、「高いところ」で「加速」するのが怖いのである。
というかだめになったのである。風神のせいで。
 そのような珍奇なものが苦手になるに至るには、凍神の長い苦労の物語があるのだが、彼も余人には知られたくないところであろう。
 故にここでは割愛させていただく。

 燃神がキセルでポンポンと自分の肩を叩いた。
「風姐、俺も今度空を飛ばしてくんねェかい?」
「いいわよォ。今度と言わずに今でもいいけど…」
 凍神と風神を見ておろおろしていた濡神がほっと息をついた。
 彼女はもめ事が苦手なのだ。今も滲んだ涙をこっそり拭うのを見て、燃神が風神を軽くめっと睨む。風神は軽く肩をすくめて舌を出した。
「せっかくだもの、濡ちゃんもどお?」
「え…、わ、私…」
 小さくなる濡神に風神は優しく笑いかけた。
「楽しいわよ。すいっと昇って、ひゅうんと落ちるの」
「でも…」
「木がね、雨の滴でキラキラ光って、本当にきれいだったわよ〜。無理にとはいわないけど」
 濡神は凍神と凍った地面をちらっと見た。確かに、これでは楽しいと言っても説得力がない。

 視線を感じたのか、頬に泥をつけた凍神がガバッと顔を上げた。
「えぁッ、濡さん…!」
 濡神を認めて、白い顔がみるみる赤くなって慌てて立ち上がる。
「こ、こんにちはッ」
「こんにちは…?」
 濡神が首を傾げると、燃神が横からひょこっと口を出した。
「俺たちに気付いてなかったのかい?」
 そこ付いてるぜ、と頬を指されて拳でゴシゴシとこする。
「も、燃さん…」
 我に返って瞬きした凍神は、今が梅雨であることに思い至る。律儀な彼は人の仕事もきちんと把握しているのだ。
「あ、そんな季節か…」
「おぅ」
 燃神がぷかりとキセルをふかした。

 燃神は、いつもの無表情が嘘のように顔を赤くしている凍神から、自分が吐き出した丸い煙へと視線を流した。
(応援したいところだがねェ)
 煙は薄く広がってすぐに形をなくした。

 風神に空中遊泳を誘われた濡神は、下を向いて考えていたが、胸の前で細い手を握りしめた。
 少し怖いけど、空から水のきらきらを見てみたい。そんな内心のせめぎ合いに好奇心が勝ったのだ。
「私、やってみます」
「そお?」
 風神は目を見開いた。
 もともと軽く振っただけの話題で、内気な濡神が乗ってくるなんて予想外だったが、すぐに笑顔になる。
「じゃあ最初は怖くないようにやるわね」
「お願いします」

「最初はちょっとだけね〜」
 凍神が片腕をぐるぐるまわした風神に反応してびくっと震えるのを見て、燃神が気の毒そうに口を開く。
「凍兄はどうするんだい?」
「やる」
 先ほどまでが嘘のように、決意に満ちた顔である。今回は持ち前の不屈の精神の現れというわけではあるまい。
 燃神は凍神の見つめる先を見、口の中だけで「あァそうかい…」と呟いて首筋を押さえた。

 濡神の周りを風が包み込む。
「俺と凍兄は練習はいいから、後でどんと飛ばしてくれ」
 凍神と燃神は、濡神から少し離れたところに立った。
 風神が長い髪をなびかせて風を呼ぶ。
「じゃあ少ーし、ふわっとするわよ」
 そーれ、と声を掛けると濡神の周りに吹き抜けた風が足下をふわりと地面からさらい上げ、濡神の纏う水の粒が巻きあがる。
 地上の3人の上に鮮やかな虹が架かった。
「すごいです。綺麗…!!」
 濡神が歓声を上げた。

 何も言えずに見上げる凍神の後ろで、燃神が風神に耳打ちした。
「今日はどうして凍兄まで連れてきたんだい?」
「えー? 見てよ〜あの甘酸っぱいの!」
 はしゃぐ風神に、やっぱりか、と燃神は思ったが言わなかった。風神がそれを楽しみたかったのは最初から判りきっている。
「それだけならなァ」
 燃神が早口になった。
「首筋がチリチリしやがる」
「え〜〜それって…」
 風神が顔色を変えた。

「きゃああぁっ!」
 上空で濡神がふらりとよろける。自分の衣の裾を踏んで滑ったのだ。
 凍神が風の足場から落ちそうになる濡神に手を伸ばす。
「濡さん!!」
「あッ」
 かくんと濡神が足を踏み外した。まっさかさまに落ちそうになるところで、
「今よおっ!」
 風神が凍神を空に飛ばした。
 濡神が宙をかいた腕を掴み、間一髪で凍神が濡神を体ごと危なげなく支える。
 風神が目を輝かせた。
「見てみて! 凍ちゃんがちゃんと風に乗れたの初めてなのよ〜!」
 キセルを銜えて燃神はため息をついた。
「風姐よォ…何で自分で助けねェんだよ」
 風神が2人をゆっくりと地面に下ろした。
 見つめあう(ように見える)2人。

 ところが、そう上手くいかないのが世の習いである。だって凍神なのである。

「イヤ…触らないで…」
 濡神のまつげから涙がこぼれ落ちた。
「え…あ、すまない」
 濡神は凍神が触れた腕を握りしめる。
 体を巡る水の一部がパリパリと凍り付いて、焼けるような痛みを覚えた。

「…親切にしていただいたのに、すみません。で、でも私、凍神さんの近くにいると、あの…凍ってしまいます…ッ」

 凍神がピシッと文字通り凍り付いた。

「あぁもォ〜」
 風神が片手で顔を覆った。
 燃神は首筋を押さえて顔をしかめた。産毛が逆立ってびりびりする。
「こいつはやべェよ…」

 濡神が凍神からかなり遠ざかって叫んだ。
「ほ、本当に…ごめんなさいいっ。これくらい遠いと平気なのですが…、近いとどうしても…ッ」

 謝るつもりで無意識に追い打ちを掛け、しくしく泣き出した濡神に応えて、晴れ渡る空に突如として暗雲が立ちこめた。
 そして、前触れもなく視界が遮られるほどの土砂降りの雨が地表を叩きつける。
「すみませぇぇぇん!!」
 濡神の姿が雨の向こうに消えた。

「凍ちゃん…?」
 凍神が凍った表情のまま、パリパリと音をたてて背中に手を伸ばした。不穏なものを感じた燃神と風神は焦る。
「お、おいッ!」
 ぼおぉぉぉん。
 木枯らしを呼ぶ冬の笛の音が響き渡る。
「凍兄っ」
「凍ちゃああんッ! 今吹いちゃだめーッ」
 初夏の大地の暖かい雨が急速に冷える。
 地表を叩く雨音に不吉なパラパラっと軽い音が混じり始めた。
「ひょう…いや…あられ…?」
 風神の呟きの通り、一瞬のうちに、小さな氷の固まりの立てる合唱が、バラバラッという音に変わった。しかもそれが、ドスッ、ドスッと地面に突き刺さる音になる。

 ボコボコと大穴の開く大地に2人が青ざめる。
「しゃれになんねえぜ」
 濡神だけならただの大雨で済んだものが、季節外れの氷雨が草花を枯らす。
キセルをガキッと噛んだ燃神が眉を寄せた。
「燃ちゃんの予感、百発百中ね〜。大災害限定」
「そんなこと言ってる場合かい! 凍兄は俺が相殺できないことはないが、濡さんまでは無理だぜ」
「でも私と濡ちゃんじゃ暴風雨よォ!」
 あられに氷雨に打たれた草がみるみるしおれゆく。あまり時間はない。
 濡神と凍神を同時に止める方法で、風神と燃神が雲を熱波で吹き飛ばすという手があるが、「俺ァ、細かい調節が苦手なんだよ」と燃神がいうように、下手しなくても最小の被害で山火事だ。
 この恐怖の二重奏を終わらせるには、風神と燃神の力では大雑把過ぎるのである。

 筆神の中の災害処理の適任者を呼ぶという考えが一瞬頭をよぎったが、2人は顔をしかめた。
「蘇じいあたりに後始末を頼むとなると面倒だぜ」
「嫌味言いつつやってくれるなら良い方よ。あのじじい、『自然災害とは、大自然の神秘。ぐう』って出てきてもくれないわよ、きっと。
 蘇神は、あるときから突然悟りを開いてしまったのだという。
 「立てば有害、座れば公害、歩く姿は百鬼夜行」と恐れられる断神を、長く一人で止めてきたことと何か関係があるのだろう。いや、絶対にあるにちがいないが、真相など怖くて誰も聞けない。
 春から夏を飛ばして冬になったところで、「異常気象なのであろうか。ぐう」と動じもしないことは予測がつく。全くあてにできない。

 ここで手をこまねいているうちにも、被害はどんどん広がっている。
「とりあえずもう一度雨を止ませるしかないか」
「じゃあ、私は凍ちゃんだけここから飛ばすわね」
 一つ頷いて風神が飛び上がった。
「行くわよ」
 上衣の五色の裾を翻し、風圧で氷の固まりを吹き飛ばしながら一直線に凍神の真上までたどり着く。

 ぼおおぉん。
 悲しい調べが広がる冷気の中を、突然炎が空中を走る。たちどころに凍り付いた地面が溶けた。
「ごはッ! 熱〜〜ッ!」
 無心で笛を吹き鳴らしていた凍神は予測もできない炎の直撃を受け、地面を転がった。降り注ぐあられがぴたりと止む。
 じゅうっと何かが焦げる厭な臭いと水蒸気が立ちこめた。その上から再び雨が降り注ぐ。もうもうと立ち上る水蒸気も瞬く間に消える。
「私も細かいのはあんまり得意じゃないんだけどなァ〜」
 片手で髪を乱暴にかきあげてため息をついた風神は腕を振りあげた。
「全く悪気はないんだけど、凍ちゃんごめんねッ」
「……ッ」
 我に返った風神は自分を取り巻く突風に気が付いた。
 ついでに周りの惨状にも。
「…風さんッ!?」
 凍神は考える間を与えられずに、ぶ厚い雲を突き抜けた更に上空まで竜巻で吹き飛ばされた。
「な、何何々〜ッ! うわあ〜ッ」
 高速で最高度から自由落下する凍神の横につけた風神が、今度は横方向の竜巻に凍神を巻き込む。
「風さあああんッ!」
 風神は、小さくなる凍神を見送って、腰に手を当てた。
「本当に、今回ばっかりは、かわいそうだと思うのッ! でもやりすぎよォ〜!」
 燃神と濡神がいる方向を見下ろした。厚い雲に阻まれて地上は見えない。
「じゃ、またね」
 軽く手を振って、風神は竜巻を追いかけた。

「こんなことって…」
 ぼこぼこの地面と、焦げた草花、しおれた木々を見つめて濡れ神が涙ぐんだ。
 初夏の瑞々しい光景は、正に阿鼻叫喚の地獄絵図へ早変わりである。

「わ、私のせいで…ッ、凍神さんを傷つけて…」
 じわじわと下まぶたいっぱいの涙で潤んだ目で見つめられ、燃神は焦った。
 ある意味その通りだが、意味合いが全く違う。しかし、暴走の一端が失恋だったとは未だに何の自覚もない濡神には尚言えず、燃神の慰めにも勢いがない。
「そりゃあ、濡さんのせいじゃねェ…」
 濡神の目から大粒の涙が転がり落ちる。
「やっぱり…うっうっ…」
 濡れ神は泣きやまない。
 どんより曇った空から、雨はしとしと降り続く。燃神が顔に手を当てて、天を仰いだ。
(誰が特に悪いって訳じゃねェが)
 言うなれば、皆悪い。
 慈母になんと申し開きしたものか。

 風神は、すっかり自分の殻に閉じこもってしまった凍神を抱えて、慌てて蘇神のところに転がり込んで、「凍ちゃんを治してちょうだいよッ」と叫んだらしい。
 しかし、すべてを超越したじじいは、そのようなもの、と軽く言い放ったと云う。
「断神に一閃でもしてもらうがいい。ぐう」
 じじいは簡単に片付け、それに逆上した風神が蘇神に殴りかかったのに何故か殴られたのが凍神だったとか何とか、なにせ噂なのでよくわからない。