それは遠い昔の話。

 類まれなる美貌だった、と申し上げよう。
 そう、蘇神は美しかった。
 大理石で彫り上げたような無駄のない体躯に、通った鼻梁、切れ長の目はするどく、薄い唇は堅く引き結ばれている。
 真っ直ぐの銀糸の髪がさらさらと古風な鎧の背中に流れる様が美しい。
 硬質な、堂々たる美丈夫である。
 彼は、とにかく美しかった。
 拝みたくなるほどに美しかった。

 ただ、それがどうなんだ、と言われればそれまでである。

*****

 鬱蒼とした森の中、彼らはちぐはぐな二人だった。
 美丈夫の隣に、体より大きな剣を背負った小動物。

 白い小さな顔に、どこを見ているかわからない、まばたきしたらこぼれそうな真っ黒の大きな目。
 表情は全く変わらず、何を考えているかも分からない。次に何をしでかすか、予想もつかない。
 つまりは小動物である。
 困ったことに、小動物は蘇神より年長である。
 蘇神は目上を立てる質だったが、まあ、我慢には限界もあるのである。

「腹が減ったのである」
 唐突に小動物が言った。
 表情は動かない。小さな口だけ小さく動く。
「断神よ」
 蘇神は見もせずに答えた。
「食わずに働け」
 小動物は気にせず続ける。
「眠いのである」
「後にしろ」
 鋭い視線で前を見据えたまま、蘇神はゆっくりと発音した。
「この森はおかしい」
「お主の頭も」
 蘇神は一瞬断神を見やって、黙って木々に視線を戻した。
「不自然だ。こんな生え方をするはずがない」

 二人がいるのは、人が足を踏み入れたこともない山の奥地だった。
 ごくごく一般的な明るいブナ林で、コナラ、クヌギ、シイノキなどが生えている。
 つまりはどんぐり林だ。
 元来日当たりのよい山林のはずが、一部分の木だけが異常にみっしりと生え、日が届かない若木が無残に立ち枯れている。
「なぜここだけ…」
 真面目に首を捻る蘇神を断神が遮った。
「腹が減ったのである」
 蘇神は懐から、こんなこともあろうかと拾っておいたどんぐりを取り出すと、ぞんざいに投げつけた。
「木の実でも食べていろ!」

 断神は、どんぐりを受け止めた手をぱちくりと眺めて、握りしめたまま、黙って密集した木立に向かった。
 本能の赴くままに欲求を満たした断神に「もっとよこせ」とか、次のどんぐりを要求されるかと思っていた蘇神は、意外な思いで断神を見る。
 小さな背中は木立に分け入って、おもむろにしゃがみ込み、どんぐりを埋めた。
 地面をポンポンと叩き、少しだけ満足げに見える顔で蘇神のところまで戻ってきた断神は、
「どんぐり」
と次を要求した。

「おい」
 蘇神の地を這うような、それでも美声に断神は淡々と答える。
「なんだ」
 自分の手にあるどんぐりを断神の目の前に突きつけた。
「これをどうするつもりだ」
「埋める」
 断神はあくまで無表情だ。
「埋めてどうする」
「冬に備える」
「備えてどうする」
「さて?」
 断神は首を傾げた。
 そうするだけで小動物は驚くほどに愛らしい。ただし、それくらいで騙される蘇神ではない。
 恐ろしい予感が胸をよぎった。
「ここはお主が埋めたどんぐりから生えた森か」
「そのようだな」
 断神は平然と言ってのけた。
 「やはりか」という思いで蘇神はため息をついた。
 埋めるだけ埋めて、それきり忘れるに違いない。
「なぜだ」
 断神が馬鹿にしたような表情になる。この上なく小憎らしい。
「木の実は埋めるものだ」
「どこに」
「ここに」
「今まで木の実はどうしていたのだ」
「ここに持ってきて、埋めた」
 語るに落ちるとはこのことであろうか。

 蘇神は萎えた気力を振り絞った。
「ならば断神よ」
 何度目になるか分からないため息。
「ここの始末はお主がやらねばなるまい」
 議論にならないのは、分かりきっている。
 蘇神は、断神を責めても時間が無駄だと早々に諦め、結論付けた。

 それには特に異論はなかったのか、断神は素直に鬱蒼とした木立に大剣を向けた。
「参る」
 体より大きな剣を重さが無いもののように扱う小動物を、蘇神は腕を組んで見守った。ただし、気は抜けない。
 断神はすべてを切り裂く慈母の剣である。
 そして慈母がいないときは、自分の障害を問答無用で切り捨て御免の歩く公害である。

 断神が、構えた大剣を無造作に真横になぎ払った。
 密集した木立が丸ごとすっぱり切れる。
 轟音を立てて倒れる木々に、蘇神の顔色が変わった。
「断神よ」
 断神は聞かない。
 興が乗ったのか、蘇神が止めるまもなく一瞬で木立を切り刻んだ。
 自分が作り出した森の残骸には興味がないのか、あっさりと舞い上がる木屑に背を向けて、断神は言った。
「済んだ」
 後にはうず高く積まれた木の切れ端の山。
 蘇神はこめかみを押さえた。
「何がどう済んだのだ」
「目的は消えた。故に済んだ」
 なんと横暴な、とは蘇神でなくとも思ったことだろう。

 蘇神は、ニコリともしない白い小さな顔を黙って見下ろした。
 そしてそのまま目をそらした。
 断神はいつもの通り、冗談を言っているわけではなさそうだった。
 茫洋とした大きな目がぱちぱちとまばたきする。
「何か不満があればお主がやればよい」
 二人とも目を合わせない。
 断神はくわっと口をあけて欠伸をした。
「後はお主がやればよいのである。我は眠いのである。ので寝る」
 断神は、もう一度言うと、その場で丸くなってすとんと眠りに落ちた。

 蘇神は眉根を寄せて辺りを見回した。
 もうもうと立ちこめる土埃。
 明るい山の一画がいっそ見事に粉砕されている。
 ちょっとおかしいところはあったとはいえ、森を適度に間引きをして、活性化すればいいだけのはずが、どうしてこうなってしまったのか。
 そもそもの原因は断神ではないのか。
 横から早速規則正しい寝息が聞こえてきて、蘇神は軽く舌打ちする。
(このまま永久に眠らせてやろうか)

 断神の言うとおりにするのは業腹だった。しかし、断神の暴走を止められず、おめおめしっぽを巻いたと慈母に思われることなど、彼の自尊心が許さない。

 蘇神は嫌々、林の再生を始めた。
 木屑がみるみる緑を吹いて蘇る。
 ただし、元の無秩序な密森にではなく、適度に光の差し込む明るい森へ。
(これで来年、また新芽が吹くだろう)
 完璧主義の仕事は、完璧である。
 蘇神は少しだけ顔を緩めた。
 それはともかく、断神はきっと終わったころにでも起き出して、「また、腹が減ったのである」とでも言うのだろう。
 忌々しいことこの上ない。

 きっと、蘇神の幸せは断神のいないところにあるに違いない。
 それでも彼らは二人で一組だった。
 これくらいのことは日常茶飯事だった。

 断神はまだ起きる気配もない。

 蘇神は、幸せになれない自分を儚んで少しだけため息をついた。