それは遙か昔の話。

 天照大神の威光があまねく満ちる大地で、その村は大河の源流が脇を流れる山のふもとにあった。
 鉄が出ることがわかってから人が集まり始め、山の周りに村をいくつか作ったうちの一つだった。
 いつ頃からだろうか。そこは昼間でも慈母の光が全く届かなくなった。
 昼間でも真っ暗な村からは出てくるものもなく、入ったものの姿も二度と見たものはないという。

 蘇神は額にかかる髪を鬱陶しげに背に払った。
 さらさらと背中に流れ落ちる銀糸の髪が風にさらわれてザアッと舞い散り、気高い美貌を彩っている。日の光を冷たく弾くその姿は、見るものがあれば、恍惚と瞳に焼き付けた瞬間に、このまま永遠に時が止まればいいと望むような、神々しくも美しい情景である。
 もちろん見るものがいればの話である。
 いくら爽やかな風が吹こうとも蘇神の眉間のしわは深くなる一方だ。
 苦悩に満ちた彫像のようなその表情は、どこか艶めいて、彼の同行者以外が見れば、その力になれるのならばと、厭わずその足元に身を投げ出すことだろう。
 見るものがいればの話である。

 彼の苦悩の源は、大きな丸い真っ黒な目に、小さな目鼻立ちを持った、外見だけは小動物のような頼りない子供だった。
 ただ、外見が子供にしか見えなくても、体より大きな剣を片時も離さず、まるで重さのないもののように扱い、自分の行く手を遮るものを問答無用でなぎ払う、動く災厄である。
 蘇神の信望者が束になってかかろうと――いればの話だが――片手で一掃されるのが目に見えている。

「断神よ」
 蘇神の、天上の弦楽器もかくやという美声に動揺もすることもなく、断神は大きな丸い目でぱちくりとまばたきした。
 蘇神に一瞬だけ茫洋とした視線を向けて、くわっと欠伸した。
「断神よ」
 我慢強く呼びかければ、淡々と返事が返る。
「何だ」
「今から何処に何をしに赴くのかわかっているのか」
 断神の小さい体は堂々たる蘇神の体躯とくらべて、いかにもか弱そうに見える。
 しかしこの上なく偉そうに感じるのは断じて蘇神の気のせいではない。
 白い小さな顔が少し頷いた。
「無論」
「ほう」
「お主がわきまえていればよい」
 ほとんど口を動かさずに断神はそれだけ言った。
 蘇神は丸い後頭部を見下ろすこともせず、まっすぐ前を向いたまま相づちをうつ。
「つまり、我に任せて何も知らぬと」
「うむ」
 平然とする断神を蘇神が低い声で追求する。
「笑止な。お主は何も知らぬまま、鴨の子よろしく我の後ろにのこのこ着いてまわるつもりであったか」
 断神の眉がピクリと動いた、が、それだけだった。
 蘇神は自分の比喩の不愉快さに、僅かに口角を下げる。
 蘇神は、毎回のこととはいえ、言いしれぬ理不尽さを感じていた。いちいち説明するのも苛立たしいが、何より一番納得がいかないのは、腹を立てているのが自分だけ、というこの状況である。
 きっと断神はそのような蘇神の心境どころか、何も考えていないのであろう。
 蘇神は我慢強い質であるが、それでも、我慢の限界など大昔に越えた。小さな火種を抜群の破壊力で立派な災厄に育てたあげくに、飽きたら放り出す疫病神の後始末に駆け回るだけの毎日。
 心底限界である。
 蘇神は己のために口をつぐんで、そのまま目的地に向かい始めた。後ろにてててて、と着いてくる鴨の子、否、断神が心底忌々しい。
 結局どこに行くのか訊こうともしなかった。
 蘇神はくちびるを引き結んで断神の存在を脳裏から追い出しにかかった。

 2人が向かっているのは人里に近い川のほとりである。
 ところが一里ほども進んだところで断神は言った。
「腹が減ったのである」
 断神を忘れるための蘇神の儚い努力は実らなかった。
 真後ろの存在を忘れる努力に意味があるのかなど問うてはいけない。
 彼は真剣なのである。
 ため息ひとつで堪えた蘇神は、無表情で懐に手を入れ、最初に指先に触れたものを無造作に後ろに投げた。
「もちが固いのである」
「黙ってかじっていろ」
 断神は余程空腹だったのか、歩きながら黙って固いもちをかじっていたようだったが、食べ終えてしばらくすると忽然と気配を消した。
 蘇神が振り返ると、遙か後ろにぽつんと丸くなった断神の横に大剣が転がっているのが見える。
 まなじりを吊り上げて近寄ると小動物は規則正しい寝息をたてていた。
 このまま置き去りにして遠くへ行ってしまおうかと思うが、一人になった断神が何処に飛んでいって何をするのか考えるだけで恐ろしい。

 蘇神は常に究極の選択を迫られている。
 世界を取るか、自分を取るか。
 それは別に誇張でもなんでもない。自分をとれば、それ以外はボコボコであろう。大災害である。悲劇である。
 蘇神にとってはどちらをとっても悲劇である。
 だが、いくら慈母のためとはいえ、前者を選んだことを蘇神は後悔しかしていない。

 断神から距離をとって立ち止まった蘇神は、握りこぶし大の石を拾い上げた。それを断神に向かって軽く投げつける。
 次の瞬間には片手で剣を振りおろした断神が、半分目を閉じたまま隣に立っていた。
 小さな頭がうつらうつらと左右に揺れている。
 断神が転がっていた場所には細かい砂がさらさらと小さな山を作っていた。
 投じた石の行方を無表情に眺めた蘇神はきびすを返した。
「行くぞ」
「眠いのである」
「後にしろ」
 断神がまた黙って後ろを歩き始める気配を感じた蘇神は、目的地に向かって足を早めた。
 断神は害意に聡い。もしなんらかの悪意を込めて石を投げたら、石もろとも蘇神も粉々だろう。粉々になった自分を画龍で再生する自信はさすがにない。
 自分だけがいつも命がけとはどういうことだろうか。
 改めて説明する気力は消え失せた。
 どうせ見ればすぐにわかる。

*************

 断神はゆっくりをあたりを見回して、目をぱちくりさせた。
「タタリ場である」
 蘇神は小さな体を見下ろしもせずに――そうすれば身長差で視界に断神が入ることはない――低い美声を返す。
「始めに説明せなんだか」
「さて」
 首を傾げる断神はたいそう愛らしい。
 立ちこめているのは間違いなく妖気だ。 無言のまま、二人はゆっくりと村の中心へと近づいた。
 本来なら遠くからでも分かる、人や家畜の声、鉄を打つ音や、生活の熱気や雑多な喧噪が全く聞こえない。
 あたりには生暖かい風が澱んで濁り、腐臭が立ちこめていた。 
 近くの森にも生き物の気配はない。
 妖気に敏感な動物たちは真っ先に逃げ出すのだ。
 しおれた木々。往来はがらんとして人影も見えない。家というのも粗末な掘っ立て小屋が三十軒ほど固まって建っている。
 妖気が濃く漂っているが、源が分かりにくい。
 どろっとしたものをかき分けているような重い感触の中で、断神が軽く大剣を振るう。
「違うものまで斬れるな」
 無表情に剣先を眺めると、柄を握り直して二度三度と同じように振るった。
 すっぱりと空間の裂け目ができ、ぐにゃりとねじれた。ぱしゃんと水音を立ててまた戻る。
「ふむ。歪んでおる」
 断神の呟きに蘇神が頷いた。
 蘇神は腕を横に差し伸べると手のひらを下に向けた。あるはずのない水が滴り落ちる。
 軽く手を振って水滴を払い落とした蘇神が、目の前に手のひらをかざす。淡く光るゆびさきから金色の泡がふわふわと落ちて、地面に着く前にかき消えるのを見て、蘇神は眉を少し上げた。
 残る泡にふっと息を吹きかけると浮き上がってすぐにはじけた。
「恨みの水か。大元を断たぬと浄化は面倒だ。断神よ」
 蘇神は断神に呼びかけて、そのまま表情を強張らせた。

 断神が大剣をまっすぐに村の中心に向けて構えている。
「参る」
「待て。如何するつもりだ」
「斬る」
「何をだ!」
 断神は、無表情に前を見据えたまま答える。
「すべてを」
「話にならぬ、断神よ。まずは退け!」
 しかしこうなると断神は聞く耳を持たなかった。
 いつもの無表情がやたらと好戦的に見えるのは被害妄想でも何でもよいから気のせいだと信じたい。
 彼らの目的は妖気の大元を除き去って、大地に慈母の御恵みを取り戻すこと。
 しかし放っておけば断神は必要のないところもまとめて斬り捨てる。
 そして「済んだ」で終わらせる。
 大味なことこの上ない。
 敵などは跡形もなくなる。しかし破壊は一瞬だがその復元には膨大な力が必要なのだ。
 蘇神が、ごっそり削れた山肌や面積が倍になったり半分になったりした川や湖を見つめて肩を落としたのは一度や二度ではない。
 断神が一瞬だけ蘇神を見据えた。
「呆けたか、蘇よ」
「何」
 だが、断神が相手の出方をまず見ること自体が面倒になったのでなければ、あとの可能性は一つしかなかった。

「もう遅いのである」
 断神が淡々と呟いた。聞き返そうとしたとき、蘇神の周りの光景が十重二十重に重なり合ってかき消えた。
 重い水が身にまとわりつく。
 蘇神が肩からかけた布が浮き上がった。
 断神がその戦いに研ぎ澄まされた感覚で何かを察知したのだと気づいても遅かった。
「取り込まれたか」
 視界をごぼごぼと立ち上ったあぶくが遮った。黒に黒を重ねたような闇の底が揺れる。泡で前が見えない。
「断神よ!」
 返事がない。蘇神は焦った。今の断神は一人にするには危険すぎる。とはいえ、断神が周りを壊滅させる前に画龍の力を使うわけにはいかなかった。力の無駄遣いは出来ない。
 敵は水を使う、それも強烈に恨みが籠もった水を。
 今はまず、自分がここを抜けねばならなかった。
 瞬く間に水底へと姿を変えた力は幻ではない。強い妖怪がいる証拠だった。
 人ならば水の重みに耐えられなかっただろうが、蘇神には何のこともなかった。
 視界は蘇神自身が放つ淡い光以外、黒に塗りつぶされている。
 銀糸の髪をゆらゆらと水になびかせて、腕を組んだ。出口は何処だ。情報が少なすぎる。まず断神を見つけねば仕方ない。
 さて、どうするか。

 水が徐々に重くなってくる。水底で行き場のない恨みが渦を巻いているのを感じる。
 膜を張ったあぶくがぶよぶよと広がって体にのしかかってきた。
(舐めた真似をしてくれる)
 じわりと肌に染み込もうとする黒い水に、蘇神はすうっと目を細めた。硬質な美貌が冴え冴えとした怒りをたたえる。
「下郎が」
 暗闇に閃光が走る。
 微かに振動を感じたが、気のせいかと首を振る。
 蘇神が発した力が周りに渦巻き、黒い水を浄化して再生させる。
 力は水流とともに真上に抜けて穴を開けたのだろう。真上から光が流れ込む。
 見上げると、遥か頭上の水面から差し込む慈母の恵み。
 光の中でぱちんぱちんと弾けたあぶくが小さな泡になるのを見て、蘇神はため息をついた。
 すぐに激昂するのは断神がいるときだけの悪い癖だったはずが、間違いなく全般的に堪え性がなくなってきているのが自分でもわかるのが怖い。腹が立ったら力技、では断神と変わらないではないか。
(…ちょっと待て。自分が何に似てきていると…)
 一緒にいると似るというがそれは人の話の筈だ。
 天から差し込む光の周りには相変わらず黒い水がそびえ立っている。
 あやうく、蘇神の思考回路は危険な領域に踏み込む前に遮られた。
 ごぼり、ごぼりと地面から黒いあぶくが湧き出る音の合間から、僅かに細い声が耳元でこだまする。
(人か…いや)
 小さな声が泡となって蘇神にまとわりつく。
「どういうことだ?」
 蘇神が聞き返しても返答はない。それきり消えてしまった。
 とにかく道は開けた。声の主についてはここを出てから考えることにすればよいかと結論付けて、蘇神は少し遠い目で遥か頭上の水面を見つめた。
「泳いで出る、しかないのか…」

 人に見せられない格好で水から出ると、村を覆った黒い水を立ち上がって見下ろすことが出来た。
 それは亀の甲羅の形をしていた。小さな山ほどの大きさがある。
 蘇神が出てきたのは頂上付近だった。村のほぼ中心地にいたわけであるから、声の主はおそらくこの亀の中心にいるわけだ。
 表面は水底のあぶくと同じようなぶよぶよした感触をしているが一応上を歩くことはできる。
 触れたものに対しての攻撃もない。
 中に入らなければ害がないとも言えるが、ほうっておくわけにもいかない。
 そして蘇神は上から目的物を発見して、ため息をついた。

 断神がしゃがみ込んで指で何かをつついていた。大剣は横に放り出してある。
 とりあえず周りの大きな被害はなさそうなのにほっとすると、甲羅状の水の固まりのてっぺんから滑り降りた。
 断神は蘇神の姿を見もせずに、熱心に何かをつつきまわしている。
「何をしている」
「亀である」
「亀?」
 確かに断神の手元にいるのは亀だった。緑色の小さな亀が、甲羅をひっくり返されて手足を弱々しげに動かしている。
 何かを訴えかけているようであるが、相手が断神では埒があかないことだろうと他人事ながら同情する。
 とにかく、この黒い水が亀になり、ここに現れたのがこの小さな亀である。
 関係なくはないだろう。
「うむ、亀である」
 話が進まない。
「だから何故亀なのだ」
 初めて断神が顔を上げた。
「そこに亀がいるからである」
「もうよい。亀が弱っているではないか」
 話も進まなければ、さっぱり訳がわからない。亀は執拗につつきまわされたせいか、弱って手足をぴくりと動かすだけだった。蘇神は断神の前から亀を摘み上げる。
「大丈夫か?」

 ミドリガメはぐったりと首をもたげ、蘇神の美貌を目の当たりにした。
 そしてそのまま失神した。

 しばらくして意識を取り戻したミドリガメは、蘇神の顔を決して見ないように甲羅に頭を縮め気味にもごもごと話した。生命の危機を感じるのか断神には決して近寄らない。
 しかし亀界の常識では甲羅に閉じこもったまま話すことは非礼にあたるらしく、びくびくしながらも首を伸ばしていた。
「神様がたに申し上げ奉ります。えー、わたくしめは昔からのここら一帯を縄張りにしておりますミドリガメ一族のものでございます」
 亀、ミドリガメは礼儀正しく名乗った。
 川から黒い亀が見えたので、慌ててかけつけたのだという。
「これはわが一族に伝わる伝説に間違いないとはせ参じた次第ですが…」
 ミドリガメは控えめに咳払いをした。
「えー、古来(以下ミドリガメ一族の来歴省略)なわけでございますが、――そこで、後から来やがりました人間の忌まわしい風習により、鉄が出る山に亀を、それもよりによってミドリガメを捧げて抗夫の無事を祈る儀式があります。逃げも隠れもしなかった我が一族は卑怯ものの人間の手によって捕らえられ、命を散らしていったのでありました…。これを第一次ミドリガメ一族の受難と申します――」
 亀だけにミドリガメの話は遅々として進まない。
「そこで立ち上がったのが一族の英雄のミドリガメであります。わたくしの約八十代前の先祖にあたります。ミドリガメ一族の恨みつらみを一身に背負い、果敢に挑んだのでございますが…。哀れ英雄ミドリガメはひときわミドリミドリしい立派なミドリガメでございまして、激戦虚しく人に捕らえられたのでございます」
 蘇神は返答を避け、いつの間にか足下に丸くなって眠り込んでいる断神を少し羨ましいきもちで眺めた。
「英雄ミドリガメは村の中心の祭壇上で生贄に捧げられたその瞬間に叫んだのであります。『人は住めまいぞ。鉄は取れまいぞ。八十代後に祟ろうぞ』そのまま絶命したそうであります。悲劇です。そして今がちょうどその八十代なのであります。山は本当に鉄が取れなくなっているのです。そこでつい先日も非常に運が悪い一族のミドリガメが生贄にされ…この黒い水が村を覆い始めたのであります…」
 うなだれたミドリガメは少し黙り込むと頭をきっと上げた。
「ところが人は身軽に全てを捨てて逃げ去り…今も遠くからここを見ているのでしょうが、誠に無念なのであります。わたくしはミドリガメの英雄ミドリガメの結末を見届け、次代のミドリガメ一族に伝える義務があるのでございます」

「つまりこの亀の形の黒い水はお主の先祖の呪いか?」
 亀の話は本当に一言で要約するとそういうことだった。
「一族を生け贄にされ続け、恨み骨髄に徹し人を祟り、そのついでに妖怪まで呼び込んでしまったとそういうことだな」
 黒い水は大きな亀の形で無人の村を覆い尽くしていた。人は集団を作り定住するものだから、その場所を奪ってしまえば人は困るだろう。因果応報の復讐劇は当事者同士で決着をつければいいのであって、もとより慈母の関知するところではない。
「妖怪!」
「そうだ」
「我が一族の宿願なれど、そのようなものを呼び込んだとは…」
 途端にミドリガメはぐったりと力をなくし、蘇神は少し慌てて顔の高さまで甲羅を持ち上げた。ミドリガメは弱々しく首をもたげ、視線が蘇神の顔をまともに捉えると、また失神してしまった。
 蘇神はため息をついた。面倒で仕方がない。
「しかしなぜ八十代後なのだ」
「……気が長いのが…カメの特徴で…ございます…がくり」
 息も絶え絶えのミドリガメに、気が長いというより…と、蘇神は口にしなかった。

「断神よ」
「何だ」
 蘇神は、すぐに返答があったことに驚く。丸い頭が上を向いて、大あくびをしたところだった。
「お主はどうやってあれから出た」
「斬った」
「それは分かるが何処から出てきた」
「巻き戻った」
 蘇神は腕を組んだ。全く返事になっていない。
「あの亀の中に入らねばならない。亀の先祖の呪いを解き、それに引き付けられた妖怪を倒す」
 体を起こした断神がもぞもぞと大剣を引き寄せて立ち上がる。
「腹が減ったのである」
「あとでたらふく食わせてやる。とりあえずやれ」
 蘇神は気絶したミドリガメの甲羅を摘みあげると距離をとった。
「ふむ。では参る」
 眠いのか、腹が減ってしょうがないのか、断神の頭はふらふらと揺れていた。
 しかし剣先は微動だにしない。
 断神は構えた大剣を無造作に水平になぎ払った。
 見えない風が走る。

 ドゴォォ…ン。

 轟音を立てて黒い亀が半分吹き飛んだ。
 ついでにその中に呑み込まれていた家もすべて吹き飛んで、残ったのはぱっくり割れた亀の断面と草一本残っていないえぐれた地面だけだった。断面は表面と同じように滑らかにぶよぶよしていた。
 蘇神の肩に掛けた布の裾がハタハタと翻る。
 頭がしびれたような気がして蘇神は軽くこめかみを押さえた。
「断神よ。亀の中へ入る道さえできればいいのだが」
「そうもいかぬ」
 視線の先では、ボコボコと音を立てて地面が盛り上がって平坦になり、みるみる草が生え木が生え、家が生えた。
 その上を黒い水が覆って、残った半身と合体し、あっと言う間に元の弾力のある黒い亀に戻る。
「時の巻き戻しか」
 蘇神は納得した。「我はそう言った」という断神の呟きには答えない。
 わかれという方が無茶である。
「口で説明しろ、面倒だからといちいち実演するな」
 断神はあさってを向いたままあくびした。

 画龍と似て非なる力が働いている。
 画龍とは壊れたもの、失われたものに、大地から得た力を注ぎこむことによって再生する力である。再生とは、時の流れを経て、徐々に欠けていく部分を今あるもので補うことである。
形は全く同じでも、それは昔と全く同じものではない。
 失われた部分は、時の流れと大地の流れを巡り巡って別のものに生まれ変わる。
 生きものは、生きながら別のものに生まれ変わっているのである。
 目の前で起きたことはそれとは違う。
 特定の場所の時間が丸ごと巻き戻っている。壊れたものが周りを巻き込んで自動で再生しているのだ。
 巻き戻しの範囲は黒い亀部分、原因は一つしかない。

「ミドリガメの先祖の恨みは深い。倒れても倒れても、元通りになるように呪いが掛かっている」

 巻き戻った時間は、今の時間とずれを生じさせ、そこにひずみができる。歪んだ時間、歪んだ世界は魑魅魍魎を呼び寄せる。
 蘇神は小さな背中に呼びかけた。
「如何する」
「全部斬る」
 今度は蘇神は断神を止めなかった。
「それでどうなるのだ」
「斬れば終わりである」
「呪いはどうなる」
「無くなる」
 いつも通り断神は簡潔である。
「我の出番も残しておけ。ミドリガメたちが気の毒だと、お主が少しでも思うのであればな」
「さて」

 断神の言う「無くなる」とは文字通りである。
 存在が「無くなる」のである。呪いも時間の歪みも分け隔てなく、「無くなる」のである。
 妖怪たちは捻れた空間を好むが、断神はその歪んだ住処ごと葬り去る。時空も空間も関係ない。断神は在るものは斬れる。
 命のもとになる単位にまでばらばらにされたものはもう誰の目にも見えない。それは「無くなる」のと同じことだ。
 蘇神はその「無い」ものを使って在ったものを再生することができる。
 断神と蘇神はその意味でも割れた鍋に閉じた蓋だった。鍋と蓋はどちらでもよいし、鍋と蓋自身の意志は一切関係ない。

 繰り出された斬撃は黒い亀を縦横無尽に斬り裂いた。
 轟音でミドリガメが跳ね起きる。まず自分の宙づり状態に驚き、続いて目の前の光景に自失した。
「これ、は…」
「気がついたか」
 断神に二度、三度と太刀を浴びせられた黒い亀は原型を留めきれず、ぐずぐずと崩れおちる。
 壊れた亀から水が溢れてくるわけでもない。
 崩れた部分からどんどん消えていく。
「水が…」
「あやつはなんでも斬るのでな。放っておけば何も無くなる」
「な…」
 ミドリガメは絶句した。
 神だからって何でもありだと思っているのかと、理不尽なことを言いたくなるくらい目の前の光景は荒唐無稽だった。
 小山ほどもある水の固まりが、断神の無造作な一撃でみるみる容積を減らしていく。
 力技で暴力的で滅茶苦茶だった。

 言葉もないミドリガメを摘んだまま、蘇神が面白そうに呟いた。
「珍しい。本当に断神が加減をするとは」
「あっ、あれで、ですか!」
 蘇神は空いた手で腰に下げた剣を鞘ごと引き抜いた。
「慣れないようだがな。いつもは一撃で終わりだ」
 そう言って、固まったミドリガメを地面に下ろすと、少し離れるように促し、蘇神は足下に鞘の先を突き立てた。
 堅い地面に簡単に差し込まれた剣にミドリガメは驚愕する。
「安心せよ。お前に害はない」
 蘇神は柄を握る手に力をこめた。
 断神が切り刻んだ水の残骸が空気に漂っているのが分かる。
 流れる水を思い浮かべる。

 ミドリガメが恐る恐る甲羅から首を出すと、そこはいつもの慣れた川の中だった。
 透明な水がごうごうと音を立てて耳元を流れる。
 蘇神は先ほどと同じ、片膝を立てた姿勢のままだった。剣は川底に刺さっていた。ただ蘇神の銀糸の髪も鎧の上から羽織った布もそよとも動かない。水の中に差し込む日の光が髪の毛に反射してきらきらと美しかった。
 ミドリガメ自身は、自分が間違いなく水の中にいることに戸惑う。吐き出したあぶくは水流に乗って流れていく。
「ここはお前の住まう川のようであって川でない。お前の先祖が繰り返し思い出した川であって川でない。今からそれに成り行くものだ」
 ミドリガメが口を開けると冷たい水が入ってきた。川であって川ではないとは如何なることか。
「ど、どういう…」
「わからずともよい。この水をお前たちの住む川に送り込むついでに、お前も帰してやろうと思ってな」
「あの…」
「後は我らに任せるがよい」
「…お邪魔にならないようにしますからどうか!」
 蘇神はくちびるを僅かに引き上げる。
「気持ちはわからぬでもないがな」
「それなら…!」
 勢い込んだミドリガメは勢い余って蘇神の顔を見つめてしまった。
 蘇神の無表情に刷かれた淡い笑みにミドリガメはぐったりとする。
 蘇神は出会って何度目だか伸びてしまったミドリガメを摘み上げてため息をついた。
 そっと摘んで、少し思案し、そのまま黙って川に流した。
 水流はミドリガメを巻き込んで、一族の川に帰っていく。
「約束は果たしたが…さてな」

 蘇神が川底から剣を引き抜くと、水流は消えた。
 辺りはすっかり様を変えていた。
 黒い水はすでになく、平らだった地面は剣の衝撃でざくざくとかき回され、ボコボコとした土の山になっていた。
 その中で断神が見えない速度で剣を振るう。蘇神には断神の姿はほとんど視認できない。たまに剣の一部が光るのが 分かるだけだ。しかしその一撃が繰り出される度に山は形を変えていく。
 蘇神が鞘を片手に立ち上がるのと、断神が最後の一太刀を加えるのはほぼ同時だった。

 突如として頭上を黒い雲が低く垂れ込め、空気が黒く染まる。ベタベタする黒い液体が降り注ぎ、臭気とともに地面が揺れて、黒い水に閉じ込められていた強烈な妖気が立ち上る。
断神は黒い水の下に埋まった妖怪の住処を暴き出し、空間を切り裂き、妖怪たちを無理やり引きずり出したのだ。
 一旦剣を収めた断神はいつの間にか蘇神の隣に立っていた。息も切らしていない。
 黒い液体が視界を覆って前が見えなくなるほどだったが、蘇神と断神の体は全く汚れていなかった。
 小さな頭を少し傾げると、低く構えをとる。
「参る」
 断神は土を跳ね飛ばしながら飛びかかってきた鬼の形の妖怪をまとめて一振りで斬り捨てて、つまらなさそうに短く息を吐く。それが全く手応えがなくて退屈だという印であるのを蘇神は経験上知っていた。断神が白々した顔のままで振るう大剣は絶え間なく地中から現れる様々の魑魅魍魎をまとめて数十匹ずつ葬り、斬り口から体液が滴る間もなく粉々にする。

 住処を奪われ逆襲した妖怪たちは全方位から襲いかかるが、断神はそれを瞬時に骸に変えていく。最初の場所から一歩も動かずに見えない剣先を振るう断神は、一筋の攻撃も受けないまま、一層機械的に、淡々と確実に敵の数を減らしていった。
 敵の中には少し離れたところに佇む蘇神を狙うものもいたが、蘇神は決まって剣の鞘で軽く受け流して、残らず断神の方に押し戻す。
 断神は見もせずにそれを屠った。
 
 敵がまばらになったころ、突然息苦しいほどの濃厚な妖気が立ち上る。
 空間の裂け目をかき分けてぬうっと腕が現れる。めきめきと音を立てながら現れた剛毛に覆われた腕は、親指が断神とかわらない位の大きさだった。
 太い二の腕、肩に続いて分厚い鋼の面を付けた顔が現れる。
 断神は初めて高々と跳び上がり、伸ばされた腕をかわし、面から漏れる生臭い息が届く前に、無造作に面に大剣を突き立てる。
 大鬼は苦悶の声を上げる間もなかった。
 引き抜きざまにすっぱり斬られた首が転がると、首から下は空間の歪みの中にずぶずぶと音を立てて呑み込まれていく。
 首には見向きもせず断神は歪みに向かって無数の太刀を浴びせた。
 ぶしゅうっと空気が抜けるような音がして、裂け目はみるみるうちに閉じていく。
 蘇神は目の前で止まった鬼の首に手をかざした。首が消え失せて、後には大輪の白い花だけが残る。
 黒い亀の下に棲みついていた妖怪も消えた。雑魚が数匹逃げたにしても、ものの数には入らない。
 異空間が閉じてしまうと、そこはもとの断神が作り上げた土の山だった。

 断神は土の上に大剣を放り出してぺたりと座り込んだ。
「腹が減ったのである」
 ため息をついた蘇神が懐から饅頭を取り出して放り投げる。
 くわっと口をあけた断神は一口で饅頭を飲み込んだ。
「まだ減っているのである」
「寝てしまえ!」
 蘇神が最後の饅頭を投げつけると、断神はまじまじと饅頭を眺め、そのまま口に放り込んだ。しばらくもぐもぐと黙って食べていたかと思うと、大剣を抱えて寝てしまった。
 素直なのは食べるときと寝るときだけであるが、蘇神は全く嬉しくない。
(しばらくはおとなしくしていることだろう)
 蘇神は断神に背を向けた。

 土くれを掻き分けて黒い亀に閉じ込められたときに声を聞いたあたりを探し回ると、祭壇らしきものの残骸があった。
 建物としてはすでに何の役にも立たないほどに破壊しつくされているが、何となくの形は残っていることに蘇神は目を瞠った。
 今回は本当に断神が気を使ってくれたらしい。祭壇の名残の板しか残っていないのはご愛嬌だということにしてやろう。
 蘇神は祭壇の前に膝をついて両手を土の中に突っ込んだ。
 そして手に触れたものをそっと掬いあげて、板の上に置く。
 村も、黒い水も、それに寄ってきた妖怪も、断神がすべて粉々に破壊しつくした。
 残ったのは、これだけだった。
 ミドリガメの先祖の体の一欠けら。
 黒い小さな塊に向かって、蘇神は痛ましげに話しかける。
「そもそもお前たちは人に呪いをかけるような種族ではないのだ」
 亀たちは我慢強くて優しい性格の生き物である。呪いをかければ、堪えかねてそれ以上に自分に呪いを向けてしまう生き物である。
 自滅とわかっていることをミドリガメの先祖は仲間たちにやらせるわけにはいかなかった。
 呪いは八十代という遠い未来に託された。子孫たちは英雄の呪いをじっと待ち続けたが、先祖が願っていたのではそんなことではなかった。
 呪いが本当になる前に、人が生贄をやめてくれればいいと願っていただけだったのだ。
叶わなかったが、先祖は八十代の間、祭壇の下でずっと願い続けていた。そして呪いを実行した。
「我に話しかけたのは最後の力だったのだな。お前の子孫は無事に川に返したぞ。お前が自分のことを忘れて子孫を手にかける前に」
 ミドリガメにはもう蘇神の言っていることが分かろうはずはなかったが、蘇神は安心させるように語り続ける。
 妖怪と同じように断神にバラバラにされて終わりでは、余りにも気の毒だった。
「お前の呪縛はすでに断神が断ち切った。今度は我がお前を還してやろう。命が巡る、慈母の世界へ」
 蘇神の銀糸の髪が金色の光を帯びて輝く。
 黒い塊は強い光に包まれて、淡く滲んで消えていった。
 金色の光は徐々に断神がぼこぼこにした一帯を覆いつくし、やがて消えた。
 残ったのは、あたりを埋め尽くす一面の花畑だった。

 蘇神は広がる花畑のなかに一際大きく咲き誇る緑の花たちを見つめる。
 断神が大剣を引きずってふらふらと近づいてくる。
「今度こそミドリガメ一族が大事にされるとよいがな。まああんなに分かりやすい亀の呪いだったのだ。しばらくは大丈夫だろうが」
 そう言って蘇神は立ち上がって、おそらく、全てを察していた丸い頭を見下ろした。
 この村の跡地にも人は帰ってくるだろう。
 カメは最初は大事にされるだろうが、そのうちまた忘れ去られることだろう。
 花畑もやがてまた人の住処へと変えられるだろうか。
「人とは」
 一瞬間をおいた断神の口調は珍しくも感情的と言ってもよかった。
 常と変わらない無表情が、ほんの少し忌々しげに見えないこともない。
 実はよほどミドリガメが気に入ったのだろうか。
「面倒なものである」
 蘇神の返答は短い。
「お前の方が余程面倒だ」
 断神はどうでもよさそうに首を傾げた。
 その場でまた丸くなる。
「眠いのである。腹も減ったのである。ふわ…」
 今回それなりに気を使って働いた(ように見える)小動物は本格的に寝る体勢に入ってしまった。
 ぴくりとも動かない。
 蘇神はひとつ大きく頭を振った。
(引きずって帰るか…)
 蘇神は、しょうがないとばかりに断神の細い二の腕に手をかけ、思い切り眉を顰めた。

「……まふひ…」
 寝ぼけた断神が蘇神の手のひらに思い切り噛み付いている。
 しかもまずいとは、一体どういう了見か。
 ぎりぎりと歯が食い込む痛みに耐えつつ、ぶんぶんと振りほどこうとするが、生きのいい何かだと夢の中で勘違いしているのか、ますます食い込んで離れない。
 蘇神は諦めた。
 熟睡している断神を引きずったまま、ずるずると歩き始めた。
 断神本人はともかく大剣がずしりと肩に重い。
 思わず呪詛の言葉が口から漏れそうになっても仕方がないと思いませぬか慈母よ、と蘇神が心の中で語りかけたかどうかよく分からない。

 ミドリガメは気が付いたら川にぷかぷか浮いていた。
 気づいたときには全てが終わってしまっていて、急いで戻ると村のあった場所は一面の緑の花畑だった。
 この見たことのないふわふわの花弁を持つ花が、ミドリガメの先祖の名残なのだとわかるわけもなかったが、花を見ていると、これで全部終わったのだという気が確かにした。

 ミドリガメはミドリガメの英雄について語る代わりに、最後に見た蘇神の微笑みを微にいり細にいり子孫に語り継いだという。

 だからといって、そのようなことが蘇神にとってなんの救いにもなりはしないのはいうまでもない。