とぽん。
曇りが淵の鈍色の水面にかるいものが落ちる音がした。
小さな波紋が広がる。
と、元の凪いだ水面に戻る前に光る小さなものがぽーんと飛び上がった。
「なにしやがんでィッ! …ぶわっ」
水面をひと跳ねした小さな生き物は、びゅるるっと上から伸びてきた植物の蔓に体ごと巻きとられ、またそのまま水面に沈められる。
「ぅわっぷ!」
派手な波と波紋が収まったあとにぷくぷくぷくっと小さな泡が立ち上った。
ぷく、と小さな泡が力なくはじけて、後は表面に水銀を流し込んだような静かな淵に戻った。
遠くで滝の音が聞こえる。
(おっかしいな〜?)
水辺に立った蓮が首をひねっていると、上空から弟の声が降ってくる。
「蓮兄ィ〜、魚つれないね〜」
見上げると蔦神が桃此花の上で同じように首を傾げていた。蔓は釣り糸のように垂れさがり、先は水に浸かったままだ。
蔦神が口を開いた。
「イッシャクがうるさいからかな〜?」
黙らせた方がいいのかな〜といい笑顔で提案する。
「う〜ん、咲兄者はイッシャクくらいの大きさの虫ならよく釣れるって言ったんだよな?」
「ウン、ならいっそイッシャクで釣ってやれって言ったのは蓮兄だけど〜」
*****
蓮神と蔦神が咲神の周りで走り回って遊んでいると「そんなに暇なら釣りでもしてきたらいいよ」とぽいっとまとめて放り出されてしまったのだ。
餌はイッシャクくらいの大きさの虫をそこらで捕まえたらいいからね、とは言われたものの、蓮神も蔦神も釣りなどしたことがない。
魚釣りのメッカ、曇りが淵で、見よう見まねでイッシャクくらいの虫を探して糸を水面に垂らして待ってみた。
しばらくすると、蔦神の垂らした糸がぴんと引かれる。
蔦神が目を輝かせて蓮神を呼ぶ。
「あっ、きたきた! 蓮兄〜きた〜!」
「えーっ、じゃあえーと、引っ張れ!」
蓮神が自分の糸を放り出して駆け寄った。
「く〜〜〜」
蔦神が顔を真っ赤にして糸を引く。
「結構つよいよー! うひゃあ!」
ふっと力が抜けた瞬間に強く糸が引かれ、虫ごと持って行かれてしまった。
「あ〜あ…」
「あ、おれも糸なくしちゃった…」
蓮神が投げ出した糸も虫ごと行方不明だ。
2人してがっかりと肩を落とした。
「蓮兄〜、どうするの〜?」
糸もなければ虫もない。
どうしようかと蓮神が目を上げると、ちょうどイッシャクが水辺でぴょんぴょん跳ねている。
きっと慈母も近くにいるはずだが、姿が見えない。慈母も近くで釣りでもしているのだろうか。
(好機!)
蓮神が蔦神に囁いた。
「蔦、いっそイッシャクを餌にしたらどうだ」
蔦神も顔をあげる。
「あっ、光ってるし、生きがいいし、いいかも〜! でも糸は〜?」
うーんと2人で首をひねる。
蔦神がぽんと手を打った。
「とりあえず捕獲だ〜!」
素早く上空の桃此花に登った蔦神が、蔓をぴゅるんと伸ばしてイッシャクを絡めとる。
「うわっぷ! な、何だァッ!?」
不意を突かれたイッシャクが大声で叫んで蓮神は慌てた。
(慈母が来ちゃうよっ)
「蔦っ、そのまま水につっこめー!」
蔦神が首を傾げた。
「あ、蔓を糸の代わりにするの〜? なるほど〜蓮兄かしこ〜い。それー!」
蔦神は手をたたいて蔓を水中に突っ込んだ。
ドボーンと派手な水しぶきがあがる。
近くにいた鳥がバサバサっと飛び立つ。
蓮神が口をぽかんとあけた。
「蔦、今のはちょっと…魚が逃げるんじゃないかな?」
「あ、そっか〜」
蔦神が笑顔で桃此花の蔓を引き上げる。
イッシャクはぐったりと弱々しく光っていた。
二人は全く構わない。
「蓮兄〜、イッシャクだけ水に入れて、魚がかかったら桃此花で引き上げるのはどうかな!」
「そうだな!」
水音もしないし、すばらしいじゃないか! 蓮神も手をたたいた。
言っておくがこの2人は釣りを全く知らない。
魚を釣るために何かがずれていることに気づいてないのも仕方がない、のかもしれない。
「じゃあ、そ〜れ!」
ぽーんと放り込む。
ぷくぷくと沈むイッシャク。
2人はワクワクと水面を見つめた。
「いっぱい釣れるといいな〜」
「そうだな〜」
というわけで冒頭に戻るのである。
*****
上空から鳥の声がする。
凪いだ水面は魚の気配もない。
(んー?)
蓮神はチリチリする首筋をなでた。
「蓮兄〜なんか僕いやな予感がする〜」
「俺も…」
突然、水面が波立ち、大きな魚影がイッシャクを放り込んだあたりで旋回した。
上から見ていた蔦神が叫んだ。
「蓮兄っ、大きな魚が! え、ええっ? わあっ!」
蔦神が桃此花から落ちたどすんという大きな音が聞こえたが、蓮神には振り返る余裕はなかった。
ざばーっと大きな魚が飛び上がって地上に跳ね落ちた。
みると見慣れた白いシルエット。
「げえっ、慈母!」
アマテラスは口から弱い光を放つイッシャクを吐き出した。
イッシャクは弱々しくぴくぴくと震えていたが、一度大きくぴくっとふるえたまま動かなくなった。
口からは謎の水草がはみ出している。
アマテラスは大きく体を振るって水をとばして起きあがり、イッシャクが飲んだ水を吐かせようと小さな体の上に前足を置き、そのままピシッと固まった。
力を入れると潰してしまう。
「ぶふッ!」
唖然と見ていた蓮神がコントのような光景に吹き出した。蔦神が慌てて蓮神の裾を引く。
「マズいよ、蓮兄〜」
アマテラスがきろりと光る目を蔦神に向ける。
「ち、ちがうよ、ボクじゃないよ。蓮兄がイッシャクを餌に魚を釣れって言ったから〜」
蔦神がじわっと目に涙をためて蓮神を指さした。
アマテラスにじっと見据えられた蓮神が慌てる。
「そ、そういえば慈母は水の中でいったい何を…?」
アマテラスは低く唸って肩を低く落として蓮神に近寄る。
「えッ! そ、そもそも咲兄者が…あれ? 蔦ッ!」
蔦神はアマテラスが目をそらした瞬間にそのまま桃此花で上空に飛び上がって姿を消した。
「蓮兄頑張って〜!」
「このッ、裏切りもの〜! あ、あれ? あれれ?」
静かに詰め寄るアマテラスに蓮神が後ずさりする。
「慈母よ、断のじーちゃまを呼び出すのはちょっと…うわあっ…」
現れた断神は、茫洋とした丸い大きな目でじっと蓮神を見据えた。
「小僧を斬ればよいのであるか、慈母よ」
アマテラスが低くうなる。
「ふむ、おいたが過ぎたと見える。老骨にはちと堪えるが、いざ、参ろうぞ」
チキッと大剣を向けられて、蓮神の顔がひきつった。
転げながら走り出す。
「うっ、うわあぁぁん! なんでおればっかり〜〜っ!」
*****
蓮神が断神から辛くも逃れて命拾いできたのは、断神が途中で目的を忘れてくれたおかげだった。
(飯を食べていないのである、と帰っていった)
(おじいちゃ〜ん)
ちなみにイッシャクは何とか息を吹き返してしばらく経ってからも、慈母の毛皮に隠れてでてくることはなかったそうな。
懲りない蓮神と蔦神が「慈母のノミ取り」と称してイッシャクにトドメを刺したり刺さなかったりしたのは、
また別の話。